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運動会が終わると、夏が遠いところへ行ってしまった気がした。半そでの体操服で通学していたのが、いつのまにかジャージの上着になった。
「町田麻衣さん、こちらの生活に慣れましたか?」
一時間目の国語がはじまるとき、先生がたずねた。
「はい」
麻衣ちゃんの返事は元気だった。
「そう、よかった」
先生の笑顔と同じに、加奈もよかったと思った。
「みなさん、作文を書いてくる宿題がありましたね」
先生の声が急に変わった。みんなは、「えー」と言ってさわがしくなった。先生が「静かに」と手を打ち鳴らして、
「今までに、一番印象に残ったこと、でしたね。発表できる人はいますか」
静かになった教室を、みんなが机の上に作文を出しているか、先生が席の間を廻りはじめた。加奈は、はずかしいけど「読んでみなさい」、と言われたときは仕方がないと思っていた。運動会の日も練習のときも、先生はみんなといっしょに暑い運動場にいたはずなのに、腰においている手が白い。加奈は陽に焼けた黒い手を、いやだなあと思いながらじっと見つめた。
「だれもいませんか?」
ふり返った先生と目が合いそうになって、あわてて手をかくして下を向いた。
「町田麻衣さん」
先生の声にはっとした。麻衣ちゃんは、きっと先生と目を合わせてしまったのだ。
「なんでもいいですか?」
自信のない低い声だった。
「いいですよ、じゃ読んでください」
シーンとなった教室に、麻衣ちゃんが椅子を引いて立つ音だけがした。
「阪神淡路大震災があって」
題名を聞いて、加奈は「えっ」と思った。
『はげしくゆれて目が覚めた。身体が押しつぶされそうに重たくて、私は泣いていた。まっ暗やみの中で、はげましてくれていたのはお母さん。わけがわからないまま、やっと助け出されたのは、こわれた家の中からだった。「麻衣ちゃん、がんばって」、名前を呼んでくれていたお母さんは、私の命と引きかえに死んでしまった』
泣きだした女の子がいた。加奈も同じだ。男の子も、下を向いて静かにしている。でも誰かが小さな声で、「ウソ」と言った。するとその声は二、三人になって、麻衣ちゃんは読むのをやめてしまった。加奈には、どういうことなのか、すぐにはわからなかった。
阪神淡路大震災のあった一九九五年は、みんなも麻衣ちゃんも一歳かそこらだ。何も覚えていない赤ちゃんだった子が、そんな作文は書くことができないはずだ、と言うのが理由だった。麻衣ちゃんは、机に顔をふせて泣き出してしまった。
「小さいときから同じ話を何度も聞かされているうちに、ほんとうにあったこととして町田さんの心に残ってしまったのでしょう。みなさんにも、そういう覚えはありませんか」
先生は麻衣ちゃんをかばって言った。
「あると思います。このランドセル、おばさんが買ってくれたそうです。でもお母さんが買ってくれた気が今でもしています」
加奈は涙をふきながら大きな声で言った。
「そうかなあ」
そんな声が聞こえた。
「そう言えば、ある」
と言い出した子もいた。麻衣ちゃんは最後まで作文を読まなかったけれど、大変な経験をしたことだけはみんなに伝わった。
作文で、麻衣ちゃんのお母さんは死んでしまったことがわかった。麻衣ちゃんは、町田のおじいさんとおばあさんと三人で暮らしていることを、誰もが知っている。お父さんはどうなってしまったのか、聞く人はいなかった。でも、それからの麻衣ちゃんは、積極的にみんなと遊んだりしなくなった。
加奈は、自分のことをいろいろと考えてみた。
自分の顔の中で太い眉がきらいだ。それでも「お母さんにそっくり」、と言われるのがうれしい。麻衣ちゃんには、「似ているね」と言ってもらえるお母さんがいない。家の庭から見える向かいの山は、幼いときから見なれた景色だ。麻衣ちゃんの家は地震でこわれてしまったのだ。家が建っていた後が、コンクリートで固められた駐車場になった理由がわかった。麻衣ちゃんが、大変な経験をしていたとは知らなかった。悲しみを全部はき出して、作文の中に捨ててしまいたかったのだと思った。
秋がどんどん深まって、通学路が落ち葉を敷きつめたようになった。おもしろい形の虫食い落ち葉を見つけても、麻衣ちゃんは興味を示さない。葉を散らせてしまった校庭のサクラに登って見せたとき、
「加奈ちゃん、パンツが丸見え」
と言って、そのときだけ笑ってくれた。こわくて降りるのに困ったけれど、麻衣ちゃんが笑ってくれてうれしかった。
明日から冬休みという学校の帰り道、
「沼のある野原に行こう」
めずらしく麻衣ちゃんがさそった。
「今ごろ行っても、何の花も咲いてないと思うけど」
加奈は言ってから、せっかく麻衣ちゃんがさそっているのに、しまったと思った。
「冬はどうなっているのか見てみたい」
あきらめずに言ったので内心ほっとした。野原へ行く道にそれると、二、三日前に降った雪が誰にもふまれずに残っていた。足元にシャリシャリと音がして、枯れたススキの葉に乗った雪が服に付いて溶けていった。麻衣ちゃんはいやがりもせず、だまってついてきている。
「ここが?」
「そう、タデが咲いていたところ。ミツバチをみつけたのは、あのへんかな?」
雪化粧をした枯れ野は、冬でも緑色した草がところどころにあるだけだ。
麻衣ちゃんが、夏には行かなかった沼に近づいて行った。そして、ショウブの花を観賞する板の橋の上に乗った。黒っぽく見える沼に、雪が残った橋がくっきりとした形を見せていた。
「加奈ちゃん、底まで氷?」
麻衣ちゃんが沼をのぞいている。
「うーん、まだ上の方だけ」
自信のない返事をすると、麻衣ちゃんは橋をささえる杭につかまり、片足を沼に下ろして氷を割ろうとした。沼は深くはないけど心配だ。
「止めてっ、あぶないから」
腕を引っ張ったけれど、加奈の言うことを聞いていなかったのか、麻衣ちゃんは力を込めて氷を割りはじめていた。
「エイッ、エイッ」
今にも泣き出しそうな声が、白い野原にひびいた。おとなしいはずの麻衣ちゃんが、必死になって氷を割ろうとしている。
「作文なんて書かなかったらよかった」
自分をしかるようにこわい顔をしていた。
「震災の作文は、麻衣ちゃん以外に誰も書かれへんでしょ」
加奈は必死になって止めようとした。
「あれはウソ! 全部ウソ!」
麻衣ちゃんは、なおも力を込めて氷をけった。
「止めて!」
加奈は泣きそうになって腕を引っ張った。麻衣ちゃんは氷をけるのをやめた。つかんでいる腕に、麻衣ちゃんの全身から力がぬけるのがわかった。
ゆっくりと橋に上がると、雪がついたままの手袋で顔を隠し、「ごめん」と言って泣き出してしまった。
加奈は「作文のことは、もう忘れて」と言うつもりだったのに、もらい泣きをして言葉が出てこなかった。
「お母さんが再婚する、私は反対や。そやから、おじいちゃんに頼んで転校してきた。
そやけど、お母さん大好き。なんで、あんな作文を書いてしもたんやろ」
麻衣ちゃんは泣きながら、一気にしゃべった。
「地震のとき、私を助けて死んだのはお父さんや。お母さんから何べんも聞いて育った。そやからお父さんの顔、全然知らん」
向い合っていた麻衣ちゃんが、ふるえた大きな息をひとつして背中を向けた。
加奈は思い出した。一年生のころに、県道へ行く道ですれ違ったきれいな人が、きっと麻衣ちゃんのお母さんに違いない。そう思うと、たまらなくうれしくなった。
さっきまで割ろうとしていた足元の氷を見つめながら、麻衣ちゃんは落ち着いた声で、また「ごめん」と言った。そして、
「固い氷」
小さな声でつぶやいた。
「割れんで、よかった」
加奈は心の中でつぶやいた。さっき麻衣ちゃんが、お母さんを大好きと言ったことが、いつまでも胸に熱く残っていた。
「お母さんな、再婚する話があってから、おじいちゃんの家の敷居が高いねん」
麻衣ちゃんが大人のようなことを言って、
「ありがとう、加奈ちゃん」
何かが吹っ飛んだように、声が元気になっていた。
「帰ろうか」
連れて来たはずの麻衣ちゃんが先になって歩きだした。お母さんが死んでしまったなんて、ウソを書いたのは過激すぎるけれど、氷を割りたかったほど後悔している気持ち、わかる気がした。
あくる日、麻衣ちゃんがおじいさんとおばあさんに連れられて、県道に下って行くのを見た。そして、クリスマスになっても帰って来なかった。