山田英生対談録

予防医学 〜病気にならないために〜

尚 弘子氏×山田 英生対談

命の大切さを知る、沖縄の先人たちの知恵に学ぶ。

語り継ぐ対馬丸の悲劇

グルクン(タカサゴ)

グルクン(タカサゴ)
沖縄県の県魚に指定されている。調理法としては唐揚げが主流で、上手に揚げれば頭も骨も丸ごと楽しめる。

山田

沖縄といえば、当社とも縁が深いんですよ。創業者である父が、本土復帰の翌年に沖縄に養蜂場を作ったのです。 「春の建勢」といって、春先に寒い本土から暖かい沖縄にミツバチを移すと、群れが早く増え、増えたところで、すぐに本土に持って帰り、春に採れるレンゲ蜜などの採蜜をするためでした。ところが、沖縄の養蜂家から「沖縄のハチミツを取りに本土から養蜂家がやってくるぞ」と、だいぶ警戒されたようです。そこで県が間に入り、当社の持っている先進的なローヤルゼリー採集の技術を、岡山県の養蜂家から、沖縄の養蜂家へ指導するという条件で、許可が下りたのです。私が中学校を卒業する頃には、当社の沖縄の養蜂場も数カ所に広がり、地元の養蜂家の皆さんともだいぶ親しくなりました。

尚

そういうご縁があったのですか。沖縄は暖かいですから、春先にミツバチの数を増やすのには、適しているでしょうね。

山田

はい。私も、父の手がけた沖縄の養蜂場を一度見たいと、高校を卒業した年の春に初めて沖縄を訪ねました。北部の自然が残っている地域から、ひめゆりの塔や対馬丸慰霊碑など南部の戦跡まで、一週間ぐらいかけて回ったのですが、その際、案内していただいた現地の方や、出会った人達に随分、親切にしていただきました。この時、触れた沖縄の人たちの温かさが心に染みるとともに、先人の知恵が息づく食文化に魅了され、沖縄がとても好きになりました。

尚

山田さんといえば、対馬丸記念館にご寄付いただくなど、記念館の運営に多大なご支援をいただいていますが、関係者の一人として心から感謝しています。学童疎開船「対馬丸」は、戦局が悪化する1944年8月22日、長崎県に向けて航海中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、乗客乗員1788人中、1418人が亡くなりました。その多くは幼い学童たちで、その中には私の級友たちも多数含まれていました。実は、私も対馬丸に乗船するはずだったのです。ところが、薬品会社を経営していた父の仕事の関係で出発が遅れ、岸壁に着いた時には、艀はすでに岸壁を離れた後でした。私も予定通り船に乗っていたら、このように生きていられたかどうかわかりません。こうした悲劇の歴史を風化させることなく、平和といのちの大切さを記念館には、伝えていく使命があると思っています。

山田

そうでしたか。沖縄は、先の大戦で唯一地上戦に巻き込まれ、戦死者は約20万人ともいわれています。中でも、対馬丸撃沈事件は、ひめゆりの部隊と並ぶ悲劇ですよね。特に対馬丸事件は、何の罪もない子どもたちが標的にされ、多数の犠牲者を出した点でも、先の戦争の象徴的な出来事といってもよいでしょう。この事件は、いつまでも語り継いでいかなければなりません。こうした過去の歴史的事実から何を学ぶかが、現代を生きる私たちにとっては、とても大切ではないでしょうか。資料館の窮状を伺いまして、なんとしても運営は続けていただきたいと思い、私のほんの気持ちをお届けさせていただいています。

変わらぬ平和への思い

尚

山田さんの尊いお考えには、本当に頭が下がります。それにしても、人間って、つくづく「生かされている」と思いますね。あの時、船が出た後の岸壁に立って、「もし船に乗り遅れたために、私が死んだらお父さんのせいだ」と、父に逆らったのを今でもよく覚えていますが、実際、父のお陰で九死に一生を得て、今こうして生きているわけですから。その後、アメリカに留学し、結婚して子どもを授かり、孫ができるというように歳を重ねるにしたがって、「生かされている」ことを実感させられますね。

山田

私は、高校1年の時、妹を病気で亡くしました。当時、多感な思春期でしたから、人間の生と死についてよく考えました。この体験が、その後の自分の人生に大きな影響を与えました。「人間はいずれ死ぬ。生きることは、死を意識しながら、よりよく生きることだ」との私の考えは、妹の死によって生まれたと思います。その後、サラリーマンを辞めて養蜂業に転じ、家業を継いだのですが、今から約20 年前に父が脳いっ血で倒れ、その2日後に自宅を全焼する火災に遭いました。この二重の災難があったから、今があるとも言えるのです。

尚

山田さんも、大切な妹さんを若くして亡くされたり、自宅の焼失や、お父さまの病気など心をお痛めになられたでしょうが、それを乗り越えて事業を成功されたのですから、やはり「生かされている」とお考えになられたほうが、よろしいのではないでしょうか。人生というものは、考え方しだいで随分変わってくるものだ、とつくづく思いますね。

山田

たしかに、その通りですね。私は初めて沖縄の戦跡を訪れた時、沖縄戦の悲惨さを知って大変なショックを受けました。そして現在も、沖縄には日本の米軍基地の75%が集中し、普天間の基地移設をめぐっては今も大きく揺れ動いています。かつての琉球王国は、武器を持たず、交易を通じて万国との架け橋となり、近隣諸国と積極的に友好関係を築いてきました。平和を愛する"沖縄のこころ"は、薩摩の侵攻、沖縄戦、米軍支配、本土復帰などの歴史的な試練を受けながらも、今もまったく変わらず、脈々と受け継がれていると思っています。私は沖縄を訪れるたびに、戦争と平和を強く意識させられますね。

沖縄に残る心の豊かさ

尚

山田さんの会社では、社員旅行先としてもよく沖縄を選んでいただいているそうですね。

山田

伊江島への民泊を社員旅行の一つとして行っていますが、社員にはとても好評のようですよ。ふつうの企業で社員旅行といえば、社員同士が親睦を図るのが目的ですよね。当社の旅行は、それだけでなく、自分自身を高める「スタディーツアー=学びの旅」としてとらえています。中学生が修学旅行で伊江島の民家に宿泊し、農業や漁業などの体験をしながら戦争体験や琉球の歴史などを学び、帰る時は涙を流して別れを惜しんでいる、という話を聞いて感動し、「沖縄のこころ」が社員にも伝わるのではないかと提案してみたのです。実際、私たちの旅行は、民泊といっても、ふつうの暮らしの中でその家の仕事を手伝ったり、家族と一緒に食事するだけなのですが、それだけで十分、感動させられました。人情味あふれるもてなしに、今では2回、3回と足を運ぶ社員も出てきました。今の日本が、物の豊かさを追い求めるあまり、失った心の豊かさが、沖縄にはまだ残っている気がしますね。

尚

戦後、日本は極貧のゼロからスタートし、バブルの頃に物の豊かさはピークに達しました。人間というものは、いったん使い捨てのような贅沢を味わってしまうと、バブルが弾けてもその気持ちを元に戻すのは難しいのかなあ、と思いましたね。物は豊かでも、心は貧しいということを実感させられました。その点、沖縄は他県に比べて、あまり物は豊かとは言えないけど、それほど貪欲ではないし、まだまだ心の豊かさは、特に沖縄県の中心部から地方に行けば行くほど残っているような気がしますね。

食から命を見つめる

山田

同感ですね。沖縄には「ヌチドウ宝」(命こそ宝)とか「ヌチグスイ」(命の薬)とか、命に関わる言葉が今でも残っていますね。多くの犠牲者を出した沖縄戦の教訓があるからこそ「命こそ宝」の精神が宿っているのでしょう。沖縄には、身体によい野草・薬草、海藻類などがたくさんあります。また、豚肉も、茹でこぼして脂肪を落とす食べ方とともに、人間の身体の悪い箇所にあわせ、豚の部位を煮込み、滋養食として食べるなど、体によい食材を理に適った調理法で食べる食文化が脈々と根付いています。これも立派なヌチグスイではないでしょうか。沖縄の人たちは、常に食を通して命を見つめているように感じますね。

尚

そう思いますね。古き良き時代の教訓に学び、食を「ヌチグスイ」と意識することは、必要ですね。沖縄は肉食文化ですが、昔は貧しくて豚肉も特別な日にしか食べられませんでした。主食もイモで、おコメもそうめったに食べられるものではなかったのです。それが今は飽食の時代で、エネルギーや脂肪分をいかに減らすかが求められています。

山田

時代は、大きく変わりました。

健康管理は、自己責任

尚

私は漢方を大事にしますが、漢方といえば、医食同源の世界。病気にならないように食べ物で丈夫な体をつくる。病気になってからでは、手遅れなのです。私は、これまで大学で食べ物が人の体をつくるという栄養学を担当してきましたので、予防医学はもちろんのこと、食を通して人間の体をどう作るかという原点に立つことが大事だと考えています。健康は、お医者様がつくってくれるものではありません。自分の体は自分で守っていくものです。

山田

そう思いますね。健康や病気は、病院や医師に任せる時代ではなく、自らが自分の身体の主治医となって健康を管理する時代。今後、高齢化の進展に伴って、国民医療費はますます増えるでしょう。健康管理は、もはや自己責任の時代といってもよいと思います。沖縄は、歴史的にも東南アジア、中国、ヤマト(日本)、アメリカの食文化の影響を受けながらも沖縄の風土に適する独自の食文化を作り上げてきました。飽食の今、沖縄の先人たちの知恵をぜひ、全国に発信してほしいと思います。

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