健康食品、化粧品、はちみつ・自然食品の山田養蜂場。「ひとりの人の健康」のために大切な自然からの贈り物をお届けいたします。
小貫 雅男氏×山田 英生対談
コンピュータ教育も大事だろう。
しかし、ヤギの乳を搾ったり、大地で野菜を育てたり匂いも手触りもある
実体験の中から子どもの知恵が発達していくことを
もう一度見直すべきではないだろうか。
私は以前からモンゴルに興味を抱いていて、昨年やっとあの大地に立つという永年の夢を果たすことができました。小貫先生は約40年間、モンゴル研究一筋に歩まれ、遊牧の大地からの視点で日本を見つめ考えてこられたわけですね。
そうですね。遊牧民家族と生活を共にし、1年、2年という長期の住み込み調査や、短期のフィールド調査をまじえながら、日本とモンゴルの間を何度も行き来しました。モンゴルはある意味で日本の対極にあります。モンゴル遊牧社会というのは、市場原理から見れば発展途上国ということになるでしょう。しかし別の視点に立つと、「遅れている」と思われている国に素晴らしいものがあることに気づきます。日本にずっといると日本の常識に沈んでしまって、本当の姿が見えなくなることがあるのです。
私にも同じような経験があります。いわゆる開発途上と呼ばれる国や地域を訪れると、たとえ科学技術は遅れていても、みなさん豊かで幸せそうな顔をしている。持たざる国だからこそ、伝統的な予防医学の知恵をいまも健康づくりに活かしてます。私たちが取り扱っているミツバチ製品も、ロシア、アルメニア、ブルガリア、ルーマニアなどでは、医療の現場で実際に役立てられています。それらの国々を見て、本当に日本は豊かなのだろうかと内省させられました。豊かさや幸福感とは「もの」ではなく、人と人のつながりをどう意識するかによるのではないかと思い始めました。
おっしゃる通りですね。私がもっとも感動したのは、モンゴルの家族の絆でした。モンゴルではひとつのゲル(天幕)の中にお父さんとお母さん、彼らの子どもが十数人、そしておじいさんおばあさんが一緒に生活しています。本来家族とは「いのち」と「もの」を再生産する場です。モンゴルでは少なくとも三世代の人が力を合わせ、家族愛に支えられながら、大地に直接働きかけ、自らの「いのち」をつないできたのです。日本では都市化がすすみ、三世代一緒に生活することが困難になってしまい、家族が本来持っていた機能もまた失われたのではないでしょうか。
かつては日々の暮らしや農作業の中で、親や地域の大人が子どもたちに自然の輪廻やさまざまな技術を教えていたんですよね。ところが農村が崩壊するとともに、家族による文化の継承は衰退してゆくばかりです。
私はモンゴルで子どもが13人いる家族の中に入ったのですが、日本でこの話をすると、お母さん方は「1人でも大変なのに、13人もいたら気が狂いそう」とおっしゃる。でも、よく観察すると、上の子が下の子の面倒をみるし、兄弟姉妹同士でお父さんやお母さんの役割を果たしてるんです。だからモンゴルのお母さんは悠々としていますよ。家族というのは、年齢による経験の違いを持つ人間の集団ですよね。その全員で大地に向かって働きかけるわけです。だから経験や年齢差によるいろんな種類の労働がある。きめ細かく、まんべんなく、無駄なく大地に向かっているという素晴らしさがあるんです。
そこに子どもたちの心が育つ基盤があるんですね。
18世紀の産業革命以降、世界が拡大経済へと移行し、私たちは大量生産、大量消費、大量廃棄の仕組みの中でずっと暮らしてきました。この社会の特徴は市場原理に基づく徹底した「競争」です。強者として生き残るために、競争によって弱者を倒すか統合するかしかなく、巨大化の方向をとらざるをえないのです。科学技術と市場原理が手を結ぶことで競争が激化し、たんに経済だけでなく人間活動のあらゆる分野に「競争」が浸透してゆくわけです。子どもたちも競争社会に巻き込まれ、その結果さまざまな教育問題が起きてきたのではないでしょうか。
もっとも弱い部分にしわ寄せがくるんですね。
人を引きずり降ろしてでも自分はその上に立っていこうとする社会では精神的にすさんでしまい、ついには暴力が暴力を生むような状況になってしまいます。
大地からの恵みで暮らしていた頃は、安心して大地と向き合っていればよかった。ところが大地から離れてしまったために、心のより所がなくなってしまいましたね。
大地は季節ごとに豊かな実りを泉のごとく与えてくれました。ところが、みんな都会へ出ていって根無し草になってしまうと、賃金だけで生活しなくてはならなくなったわけです。非常に不安定な状況です。大地を受け継いでゆく農村とは違って、都会では子どもに残す財産がありません。だから子どもの幸せを願う親は教育に熱を入れざるをえないのです。子どもの才能というのは非常に多様なのに、一つの価値観だけが押し付けられ、その他の芽は全部摘み取られてしまっています。
学校の成績という価値観だけでは、子どもたちは自分が大切な存在であることを実感できませんね。かつての農型社会では、子どもたちも重要な労働力として頼られていたので、自分が必要な存在という自覚があったはずです。
モンゴルでは小さいときから遊びと仕事の区別がないんです。年齢が上がると、例えば「ヤギの搾乳をしなさい」と親から言われます。「親がやっと一人前に扱ってくれた」と誇りに思って挑戦するわけです。好奇心もありますよね。嫌々ではなくて、自分の興味に従って動いてゆくわけです。こういうものが日本の教育の核にあってほしいと思いますね。コンピュータ教育もいいけれど、虚構の世界だけではなく、もっと匂いも手触りもあるような実体験の中から、子どもの知恵が発達してゆくことを考えてほしいですね。
私たちが進歩だと思っていたものが、じつは人間や家族が大地から離れてゆく歴史でもあったんですね。そのマイナス面の被害を一番受けているのが子どもです。
モンゴルでは、子どもが生まれるときには家族が見守っている。砂漠地帯では死者をラクダの背中に乗せて家族で見送る。生と死を子どもの頃からちゃんと身近に知っているんです。人間は必ず大地に生まれ、大地に帰ってゆくという循環の中にあるのだとね。理屈で循環型社会が大事だと言うのではなく、まさに自分の命がその循環の中に組み込まれていて、そこから離れては生きてはいけないということを知っていると思います。私たちが制作した『四季・遊牧-ツェルゲルの人々』というドキュメンタリー映像の中で、仲のいいお父さん同士が山奥へ狩りに出かけてゆくシーンがあります。たき火に向かい合いながら村の話をするんですが、平気で「あのおばあさんはもう60何歳だから次はあのおばあさんが逝く番だ」と語っています。それが当たり前のようにね。人はそういう宿命を背負った「いのち」なのだから、争ったりしてもつまらないと思えてきます。
小貫先生が提唱されている「菜園家族」構想は大変面白い考え方ですね。
この構想は、週のうち2日間は従来の企業や公的機関で勤務し、残り5日間は自分たちの「菜園」で作物をつくって生活しようというものです。給料は半分以下になるけれど、「菜園」から食べ物が確実に手に入ります。と同時に、ゆとりのある育児や教育、風土に根ざした文化活動など、人間本来の創造的な活動に携わろうというものです。
週休5日制にして、大地に帰ろうというわけですね。私は養蜂家の家に生まれ、子どもの頃はずっとその手伝いをしていました。農業は家族みんなでやるものだという感覚が身についているので、「菜園家族」のお話はとてもよく実感できます。
農業は根源的な芸術だと思うのです。総合的な喜びがある。いま人生の大半の時間は自分の自由になりません。それでは人間の尊厳が傷ついてしまいます。21 世紀は、ある意味で失われた人間の尊厳を回復してゆく世紀ではないかと思うのです。そのためには自由に息をする時間が必要なんです。私が小学生の頃、先生は、科学技術が発達すると機械が人間の労働の代行をしてくれるから、人間は豊かな文化活動ができ、時間もゆったりしてくるとおっしゃったのですが、残念ながらそうはなりませんでした。しかし、科学技術と市場原理をドッキングしないようにすれば、科学技術は人間のためになる方向へ向いてくると思うのです。
市場原理というのは、もともと弱者を犠牲にして発達するような宿命があると思います。例えば安い商品をつくるために、人件費の安い国でつくる。誰かを犠牲にしているという意味では、人件費の格差というのは奴隷制や植民地と同じようなものです。企業家として、本当にそれでいいのかと疑問に思いますね。
私はモンゴルから帰るといつも思うのですが、日本列島はじつに多彩です。雪の北海道から暑い沖縄まである。山岳あり、海岸線あり、渓流ありというモザイク状です。そこに「菜園家族」が点在していけば、都市に集中した人口が分散し、大都市がゆったりとしてきます。中都市・小都市を核にして菜園家族の田園地帯ができ、そのネットワークが広がってゆく。日本の風景まで変わってきて、素晴らしい未来があるのではないかと思うとき、私は明るい気持ちになれます。私自身は命が尽きてそれを見ることができないでしょうが、せめていま苦しんでいる子どもや孫たちが明るい世界でのびのびと生きられる、本来の人間性を取り戻していけるようになるためなら、少しくらいの痛みは我慢してもいいと思えるのです。
私たちの会社の原点は農業です。農業から得てきたのは、たんに食べ物だけではなく、誠実さや真面目さ謙虚さなど日本人の心だと思うんです。日本人の心を育んだ農業が衰退したとき、心も退化してしまうのではないかと不安になりました。農業の価値を社会にアピールしていくことが、私たちの使命ではないかと思い始めたのです。そこで、私たちは企業の本質的な役割をもう一度見直し、社会の一員として義務を果たすという視点からさまざまな社会活動をおこなっているのです。
山田養蜂場さんは、自然教育や絵本・童話のコンクールなど、とくに子どもたちのための社会活動にとても力を入れられていますよね。
子どもたちがミツバチを通じて人と自然の関係を学ぶ『エコスクール』や『みつばち教室』、子どもたちに豊かな心を育んでほしいという願いを込めた『ミツバチの童話・絵本コンクール』など、ゆっくり永く続けられる活動を中心に取り組んでいます。農業社会が育んできた自然への感謝の気持ちや温かな人間関係、あるいはさまざまな知恵を、子どもたちへ伝える社会活動をおこなうことは、農業を原点とする私たちの務めではないかと思っています。
企業の社会活動というと、ともすると華やかなイベント開催などに偏りがちですが、山田養蜂場さんの活動は子どもたちの心に栄養を与えるような活動ですね。
今後も、時代や景気の流れに左右されず、じっくりと取り組めるような活動を続けたいですね。何年後か何十年後かはわかりませんが、きっとその子どもたちが大人になる頃、社会や人々の心がやさしさや思いやりを取り戻してくれることを願っているのです。
企業にとっても私たち日本人にとっても、非常に厳しい時代になりましたが、逆に冷静に考えて行き過ぎを見直すチャンスではないかと思います。人間は、逆境にならないとなかなか本質を考えにくいものです。だから、現状だけを見て落胆、失望してはいけないんです。この状況はある意味で、21世紀の新しい時代をつくるきっかけになるのではないかと思っています。山田養蜂場さんのような企業が出てくることも、その兆しではないでしょうか。
そうですね。私たち山田養蜂場でなければできない「使命」ともいうべき仕事があるのではないかという思いを持ち続け、今後もさまざまな社会活動に取り組みたいと思います。本日は本当にありがとうございました。