健康食品、化粧品、はちみつ・自然食品の山田養蜂場。「ひとりの人の健康」のために大切な自然からの贈り物をお届けいたします。
宮脇 昭氏×山田 英生対談
科学技術万能の時代といわれる現代社会。人類は、かつてない繁栄や豊かさを享受しているように見えます。しかし、その一方で地球上には紛争や貧困、病気、 環境破壊などの難問が横たわり、人類の行く末に暗い影を投げかけています。そんな中で世界各地を植樹指導などに駆け回る横浜国立大学名誉教授、宮脇昭さん (78)。失われた地球の緑の再生に大きな功績があったとして今年の地球環境国際賞「ブループラネット」賞に輝きました。一方、多忙な合間を縫ってビジネ スや途上国支援などで世界各国を精力的に飛び回る山田養蜂場、山田英生代表(49)。訪れた国は、それぞれ数十カ国に及びます。二人が旅で触れた「幸福と は」「心の豊かさ」とは一体、何だったのでしょうか。
【構成 毎日新聞社 編集委員・成井哲郎】
まずは、ブループラネット賞の受賞、誠におめでとうございます。確か、日本国籍では先生が初めての受賞者とうかがっております。「環境分野のノーベル賞」ともいわれるくらい国際的にも高く評価されている賞ですから受賞は、本当にすばらしいことです。今の科学はどんなに進歩していても、現実には、木の葉の一枚だって作れませんが、先生は科学者として「潜在自然植生」の概念に基づく森林再生の理論を提唱される一方、自ら現場に飛び込んで実際に生命の創造に長年、取り組んでこられました。学問上でおっしゃっていることを行動に結びつけることは、非常に難しいことだと思いますが、先生は生物、自然に対する使命感を自覚され、ご自分の行動として実践してこられました。この賞は、実践派、行動派の先生にとって、まさにぴったりの賞のような気がします。
そう言っていただき、大変光栄です。長年、地味な現場からの研究をご指導、ご支援くださった山田社長をはじめとする企業、行政の方々、そして一緒に森づくりに携わっていただいた市民の皆様のお陰であり、深く感謝いたします。 日本の歴史を振り返ると、私たちの祖先も森を破壊し、開発を行ってきました。特に中国から稲が入って来てからは水田や畑をつくり、道や集落を築いてきました。しかし、その一方で日本人は、すべての木は伐らず、必ず「ふるさとの木によるふるさとの森」を残し、守り、創ってきたのです。この森こそ、長い歴史に支えられた鎮守の森であり、世界に誇る日本人の英知と思いますね。今では、「鎮守の森」といえば、知らない人はいないくらいで、国際植生学会などでも世界の公用語になっています。私は、この鎮守の森のノウハウをぜひ、世界に広めたいと思っています。
「鎮守の森」が国際用語になっているとは、知りませんでした。
大都会の貴重な緑のオアシス、明治神宮の森。災害にも強い防災環境保全林としての機能も備え、「東京の鎮守の森」として多くの人に親しまれている
日本には古来から八百万の神を祭る習わしがあり、「あの森にも、あの山にも神が宿る」とされてきました。いわば、「この森を伐ったらバチが当たる、この水源にゴミを捨てたらバチが当たる」という宗教的な崇り意識で、ふるさとの森を残してきたんですね。ところが戦後、「宗教の自由」の名のもとに日本人は、宗教に無関心になり、4000年この方、共生してきた土地本来の森をわずか60年でほとんど破壊し尽くしてしまったんです。ヨーロッパ、特にゲルマン民族の人たちには、かつて森を破壊してきた歴史があるから森林を失うことに本能的な恐怖感を抱いてきました。だから市や町は、道路や公園などを造る際は、必ず森をつくってきたし、個人も家を建てる時は同時に、木も植えてきました。プロイセン時代のドイツでは、宰相・ビスマルクが「1本伐ったら、3本植えろ」と指示を出したくらい森を創ることに熱心でした。しかし日本には、そうした歴史がないから、宗教的な自然に対する畏敬の念が失われると、ズルズルと森を破壊し尽くしてしまうんです。
「よく仕事で海外に行くことがありますが、世界には不思議なことがたくさんありますね。昨年6月、中国・内蒙古自治区に宮脇先生と植樹祭にご一緒しましたが、ものすごい集中豪雨に遭いましたね。年間でも、わずか400ミリくらいしか降らない地域なのに、一度にあれだけの量に見舞われたのには本当、びっくりしました。
日本人は雨が降ると、「うっとうしい」とか言って嫌がりますけど、他の国にとっては恵みの雨になるんですね。雨が降れば、木を植えることだって農作物をつくることだって、可能になるわけですから。
確かに日本の国にいると、雨が降るのはふつうの自然現象であって、珍しいことではありません。だから雨の大切さというか、価値がなかなか、分からないと思うんです。ところが、いったん海外に出ると、生き物にとって雨がどれほど必要なものかが実感できますね。雨といえば以前、ペルーに行ったとき、エルニーニョの影響で大雨が予想され、大洪水を専門家が予見していました。当時のフジモリ大統領は、首都リマの近郊を流れる川の幅を30メートルから100メートルに広げる拡幅工事を断行したのです。その結果、数万人が洪水被害を免れることができたと言われています。しかも砂漠にも雨が降ることが予想されていましたので大統領は、砂漠に草花の種をまき、国民の反対を押し切って砂漠に堤防を築いたんです。すると予想通り雨が降って、砂漠が一面、草原に変わるとともに大きな池が出現し、その水を使って灌漑農業ができるようになったそうです。先見の明というか、予兆を見逃さない1つの例だと思いますね。政治家や役人が保身を考えなければ、このような英断もできるのですね。
そう思いますね。日本では、「あれもだめ、これもだめ」といった引き算をします。どんなプロジェクトを実行するにしても、リスクの伴わないものなんてないんですよ。ドイツには「役人に過ちなし」という言葉がありますが、日本の役人は、ミスしてもなかなか認めたがりません。とにかく数字、数字で、すべて数字だけで判断しようとする。私は問題が起きる前に、数字に現れない、現代の科学・技術や医学で見落とされている要因を見抜くことこそ、重要だと強調しています。現場に行けば必ず、何らかの予兆というか、微かな情報が秘められています。それを事が起きる前に、研ぎ澄まされた感性や知性を駆使して見えない全体を読み取ることが大事だと思いますね。これは何も、植物に限ったことではありません。最近、問題となっているいじめにしても、ある日、突然起きるなんて、ふつうはありえませんからね。必ず何らかの予兆があり、それを事前に両親や先生が見つけ、問題の起こる前に対応することが必要です。
外国へ出かけると、いろんな光景に出くわします。南米のイグアスの滝を見た帰りに、5人のインディオの女の子がみやげ物を売っているのを目撃しました。どの子も、すごく物悲しそうな目をしていたのがあまりにも気になって、少し調べてみて驚きました。熱帯雨林がどんどん破壊されて、森の中で生活していたインディオたちがそこに住めなくなり、次々都会に出て来るんですが、居住権のない彼らは、強制的に居留区に入れられるのです。彼らには選挙権もないし、仕事もありません。スラム化した居留区でしか生きられず、将来を悲観して10代の前半で自殺する若者が多いと聞きました。その点、日本では、誰でも学校に行けるし、失業しても雇用保険があります。「日本人に生まれてよかった」と思う半面、この幸せは誰の犠牲の上に成り立っているのかを真剣に考えてみる必要があるのではないかと思いますね。
日本からの調査団一行を「田植え歌」を歌って歓迎するケニアの女性たち。貧困など厳しい環境にありながら表情は、底抜けに明るい
おっしゃる通りです。昨年12月にケニアに行った時、行く先々でご婦人たちが田植え歌を歌いながら収穫を祝う踊りで私たちを歓迎してくれました。特に北部の地域では、日本の100年前の農村の風景が広がり、女性たちは薪を集めたり、農作物をつくっていました。まさに自然とともに生きる暮らしですね。ここでは、貧困や飢餓、病気、水不足など非常に厳しい環境に置かれながらも皆さん、底抜けに明るいんですよね。幸福というのは、なにも物質的な豊かさだけではないことを、ケニアの女性たちからも教えていただきました。
経済的にいくら豊かであっても、心が豊かでないと、本当の幸せとは言えませんよね。
失われた緑をよみがえらせるため、子どもたちと一緒に「希望の苗」を植え続ける宮脇さん
そう思いますね。また、ケニアで私が女性たちの育てたポット苗の成長具合を見ようと、ポットのビニールを破こうとしたら、「ダメ、破らないで」と血相を変えて怒るんですよ。何度も使ってビニールが破れているのに、「まだ使える」と言うんです。モノが余りすぎるくらい豊かな日本では、捨てるのに苦労するほど無駄使いをしていますが、ケニアの女性たちの節約ぶりを直接、目にして、「廃棄物も地球資源である」ことを学びました。
日本でも昔の江戸の町は、リサイクル社会だったと言われています。その文化的な知恵をもう一度復活させたいものです。それと昨年、南アフリカからの帰途にインド洋に面したマダガスカルに寄ったときの話なんですが、93年に日本が冷害でコメ不足となり、外国からおコメを緊急輸入した時のことが話題に出ました。日本のコメ不足の問題が、なぜマダガスカルと関係があるのか、不思議に思いますよね。ところが、大いに関係があったのです。貧しいマダガスカルの人たちは、米が主食なのに、小作農家ばかりで、安いタイ産のコメを買って食べていました。ところが、日本が大量にタイ産のコメを買ったため、その価格が高騰し、彼らは、買えなくなってしまったそうです。それでもマダガスカルの人たちは、「日本人もコメがなくて、かわいそうだから」と言いながら、「キャッサバ」という芋を食べて、しのいでいたと聞きました。しかし日本人の中には、「タイ米はまずい」と言って捨てた人もいたそうです。私はこの話を聞いて本当に悲しくなりました。
世の中には、おかしなことが多すぎます。
そうですね。以前、外国で広大な大豆畑を眺めながら、「これも人間の食料になるのかな」と思っていたら、ウシの餌になると聞いて驚いたことがありました。今、地球上の約4分の1の人たちが飢えに直面していると言われています。これに対し、世界の穀物生産量の3分の1は、家畜が食べている、と聞いたことがあります。穀物を食べたウシは、ハンバーガーの肉に変わったり、ペットフードの牛肉などになっていますが、もし、家畜に与える飼料を貧しい開発途上国の人たちに回したら、地球上の飢餓問題はいっぺんに解決すると思うんですけどね。
飼料だって動物のおなかを一度、通せば、エネルギーは10分の1に減ってしまいます。例えば、人間だったら10人分を養える大豆を牛に与え、(牛が)牛肉やハンバーグになったら人間一人を養う量にしかなりません。家畜に与える小麦や大豆、トウモロコシなどの穀物をそのまま、開発途上国に回せば、多くの貧しい人たちを救えるんですけどね。
しかも、家畜に与える大豆やトウモロコシも熱帯雨林を伐採して、切り開いた畑でつくられたものが多いと聞きました。どこか歯車が狂っているとしか思えませんね。経済社会や自然科学が発達すれば、人間はどんどん幸せになるといわれてきましたが、現実には幸せどころか貧富の差は広がるばかりです。まだ国際社会には、「人類共通の利益を守る」というキーワードは、残念ながら浸透していないように思います。まだ自分だけ、家族だけ、日本人だけの利益を守っているにすぎない気がしてなりません。21世紀は、ぜひ「全人類」という視点に立った考え方が必要だと思います。
(企画制作、写真提供:毎日新聞社広告局)