健康食品、化粧品、はちみつ・自然食品の山田養蜂場。「ひとりの人の健康」のために大切な自然からの贈り物をお届けいたします。
「あいた!」
擦りむいた膝小僧からジワ〜ッ、血がにじみだした。それを見たとたんタカシは痛みを感じだした。
「もっとはやく帰ってこなくちゃいけなかったのに。」
今日は塾の日だということを忘れ、下校の途中道端の蟻ありの大群に見とれて遅くなってしまった。寄り道をしたって近所の塾なら走って三分。そんなに焦ることはないのだが、今日から行く塾は家から遠く、電車に一駅揺られて来て、これから向かうところだった。
タカシはかなり焦っていた。それで道端の小石を見落としてしまったのだ。
家を出るとき塾のことで母親と口喧嘩してしまったことを思い出して、膝小僧の擦り傷はなおのこと痛みだした。
タカシが転んだすぐそばに都会のオアシスと大人達がよんでいる大きな公園があって、春の今は花盛り。ぷ〜んと、花の香りがした。
その公園の方から一群れのミツバチが飛び出してきた。
「あ、ハチだ!」
辺りは高いオフィスビルも多く、こんなところにこんなにたくさんミツバチがいるなんて、とタカシは不思議に思った。
ミツバチたちはタカシにはおかまい無しで一目散に高く飛び上がって行った。
タカシは不思議に思ってミツバチのいく方向をじっと見つめた。
ミツバチたちはすぐそばにそびえ立つ保険会社のビルの屋上に吸い込まれていった。
「え?どこへ行くんだろう?」
タカシは自分でも知らないうちにビルの入り口に向かっていた。
ビルの中に入るとすぐに警備のおじさんに呼び止められた。
「君、一人?お母さんか誰かと一緒かい?」
この所、小学校高学年とか、中学生の起こした事件が世間を騒がせている。六年生のタカシが一人で、子どもには用のなさそうな保険会社のビルに入ってきたら誰だって不審に思うだろう。それに膝には擦り傷と、血のオマケまでついてるし。
しょうがない、正直に言うしかない。
「あの、実は僕、昆虫に興味があるんですけど、いまこのビルの上の方に向かってたくさんのミツバチが飛んで行ったのを見て、上に何かあるのかなあと思って……。」
不審な顔をしていたおじさんもそれを聞いて微笑んだ。
「君何年生?一人でも大丈夫なの?」
「えっと、六年生です。これからこの先の塾に行くんですけどまだ時間があるので。」
塾はとっくに始まっていたので嘘をついていることはちょっと胸が痛んだけど、まあいいやと開き直った。
警備のおじさんは受付の女の人に何かちょっと耳打ちすると、女の人から紙切れをもらいタカシのことをエレベーターの所まで連れて行った。
「このエレベーターで十五階まで行ってそこから屋上→と書いた所まで行ってごらん。そこにも多分警備の人がいるから、この紙見せてごらん。屋上まで連れて行ってくれるよ。塾に遅れないようにね。」
おじさんの言った通り十五階にもやはり警備の人がいて言われたとおり紙を見せると、屋上に行く階段の鍵をあけてくれた。
そこの警備のおじさんからも、その紙を上にいる人に見せるように言われた。
タカシはまるで魔法の絨毯じゅうたんをもらったアラジンのような気分だった。
その紙を見せると自分の行きたい場所に簡単に行けるのだ。 いつか膝の痛みも忘れていた。
屋上への階段を上るとドアには「必ずノックのこと!」と書いてあった。
おそるおそるノックするとドアの向こうから声がした。
「はい。今あけます。」
胸がドキドキした。
ドアの向こうに立っていたのは頭から網をかぶったおじさんだった。
タカシはビックリして一瞬声が出なかった。
「あの、 あの……」
シドロモドロになりながらもらった紙をやっと見せた。
ビニル手袋がその紙を掴んで読みあげた。
「未来の昆虫博士に、 屋上農園を見せてあげて下さい。 受付・橋本」
おじさんは網を脱ぐと優しい笑顔でこういった。
「どうぞ入って。」
眩しい光が一斉にタカシの目に飛び込んできた。
広い空が見えた。
「ワ〜、 ビルの屋上ってこんなに広いんだ!」
タカシの住んでいるマンションは屋上に行くことは出来ない。 こんなに高い場所の、 こんなに広いところで空を見上げたことは初めてかもしれない。
タカシが感激しているとおじさんが言った。
「君は他に見たいものがあったんじゃないのかな?」
我に返ったタカシはちょっと赤くなった。
おじさんは笑っていた。
「ビルの下にたくさんミツバチがいて、 そのミツバチたちがみんなこのビルの上に飛んで行くのを見たんです。 ここに何かあるのかなあと気になってしまって。」
おじさんは黙って、 網で作られた大きな帽子をタカシに渡した。
「これかぶって。」
魔法の絨毯の次は、 魔法使いの帽子かな?
タカシのドキドキはますます強くなり心臓が破裂しちゃうんじゃないかと思った。
「ほい、 ちゃんとかぶらないと危ないよ。 それからこれもつけて。」 タカシの帽子の裾を直しながらゴム手袋を手渡してくれた。
ドアの所から屋上を少し歩いて行くともう一人網の帽子をかぶったおばさんがいた。
おじさんはおばさんに向かって
「未来の昆虫博士。」
と言って笑った。
おばさんはケラケラ声を上げて笑った。
博士と言われてなんだか照れてしまった。
あんまり照れくさくて、 コホンと一つ咳払いをしてタカシは勇気を出して言った。
「昆虫には興味あるけど博士じゃありません。 好奇心の強い、 ただの少年タカシ、 戸塚タカシです。」
するとおじさんもおばさんも声を合わせて笑った。
「タカシ君って言うのか?タカシ君、 これ僕の奥さん。 一緒に仕事してるんだ。 こっちにおいで。」
変なことを言ったのでまだ顔が熱かった。
おじさんの言う方について行くと、 たくさんの木箱が置いてあって、 そこには無数のミツバチが出たり入ったりしていた。
「わー、 すごいや。 おじさんたちハチ飼っているの?」
「そう蜂屋さん。 ハチミツを作っているんだよ。」
それは信じられない眺めだった。 ミツバチは少しも休まず行ったり来たり忙しく働いていた。 おじさんは巣箱の中を見せてくれた。 びっしりとハチがついていてちょっぴり怖かった。
「蜂屋さんもハチも今がいちばん忙しいんだ。 春は花がいっぱいだからね。 おじさんたち、 本当は滋賀県に住んでいるんだけど、 これから夏に向かって北海道まで移動して行くんだよ。 東京も大きな公園にはたくさん花があるんで、 いつもちょっと寄っていくんだよ。」
こんなビルの屋上でハチたちが忙しく飛び回って蜜を作っているなんて、 誰が知っているだろう。 タカシは自分一人が知っているということがなんだか誇らしかった。
もっともっと見ていたかったけど、 さすがに塾の講義を二時間目からは聴かなくちゃ、 とタカシはおじさんたちに別れを告げた。
「僕、 月、 水、 金ってこの近くの塾に来ているんだけど、 また来てもいい?」
おじさんとおばさんはにっこり頷いた。
タカシはあんなに嫌だった新しい進学塾に通うのが楽しみになった。
少し早めに家を出てくるものの、おじさんたちと話をしたり、ミツバチの仕事ぶりを見ているとついつい時間を忘れ、一時間目は毎度さぼりになってしまった。
ある日そのことがお母さんにばれてしまった。塾の先生からお母さんに電話があったのだ。
塾に飛び出して行こうとしていたタカシは玄関で呼び止められてしまった。
「タカシ、塾の一時間目サボリなの?一体その時間何しているの?まさかゲームセンターなんかに行ったりしてないわよね?」
「もちろんだよ。行ってないよ。」
「じゃあ、どこに行っているの?お母さんに言えないような所なの?」
「そうじゃないよ。でも今は言いたくない。」
お母さんの顔色がみるみる変わって行くのがわかった。頭から湯気も出ている感じだった。
「じゃ、行ってくる。」
「ちょっとタカシ待ちなさい!まだ話の途中よ。勉強するために塾へ行っているんでしょ?さぼってどうするのよ。それじゃ、星大附属に受からないわよ。どうするのよ。」
タカシは脱げかかっている靴を気にしながら走り出した。
「そんなに行きたいならお母さんが行けば?僕はそんな所には行かない!」
「タカシ!タカシ!ちょっと待ちなさい。」
お母さんの怒った声が聞こえたけど、タカシはもう一寸も待てなかった。
屋上農園へ着くなりタカシは大きな声で怒鳴った。
「おじさん、どうして子どもは勉強ばっかりしなくちゃいけないのさ。僕にはわからない。僕のしたいことなんて何一つさせてくれないんだ。今年は塾の夏期講習があるからって、長野のおじいちゃんちに昆虫採集にも行かせてもらえない。」
おじさんは仕事の手を休めて困ったような顔でタカシの方を見た。
「う〜ん、難しい質問だな。実を言うとおじさんも子どもの頃わからなかったなあ、なんで勉強しなくちゃいけないのか。おじさん勉強嫌いでな、いつもさぼってた。テストの点もひどかったなあ。母親にしょっちゅう叱られてたよ。でも今、もう少し勉強しとけば良かったってよく思うんだ。」
タカシはしたり顔で叫んだ。
「おじさんもやっぱり、僕に勉強させようとしている!」
「いやいや、そんなつもりじゃないよ。おじさん蜂が好きで今この仕事しているだろ?この仕事は蜂を働かせるだけみたいに見えるかもしれないけど、いろいろ勉強しないといけないことばっかりなんだ。蜂の病気とか、花のこともよく知らないといけないし、難しい本も読んだりするんだよ。そんな時、勉強しとけば良かったってちょっと思うんだよ。」
タカシはほんの少し納得した様子だった。
「でもさ、おじさん、その勉強は何も星山大学附属中学校へ行くための勉強じゃなくてもいいよね。そんな所に行かせたいなんて、お母さん見栄っ張りなんだ。僕のためなんかじゃないんだ。お母さんの見栄のためなんだ。」
おじさんは、ちょっとビックリしたようだった。
「タカシ君が行こうとしているのは星山大学附属なのかあ。確かに難しい学校だな。そこは難しいだけって思っている人が多いと思うけど、実はそこの大学にはミツバチ研究所があるんだよ。それとすごく有名な昆虫博士がいるんだ。特にミツバチの生態について研究している先生で、世界的にも有名なんだよ。おじさんたちのように蜂を飼っている連中も年に一度くらいはそこの先生の話を聞きに行くんだよ。うまくそこの附属に入れたら、タカシ君ただでその先生の話も聞けるかもしれないな。」
タカシはだまったままじっとおじさんの話を聞いていた。頭の中でいくつもの考えが渦巻いていた。
「な、タカシ君、蜂たちを見てごらん。一日中忙しく働いているなあ。もちろん人間のためなんかじゃないよ。女王蜂のために一生懸命蜜を集めてくるんだ。こんなに一生懸命働いても一匹の蜂が一生に集められるのはたった茶さじ一杯分の蜜なんだよ。タカシ君はハチミツ好きかい?」
タカシはうなずいた。
「ハチミツ甘くておいしいよなあ。こんなにおいしいハチミツをいやいや集めている訳がないとおじさんは思っているんだ。簡単な仕事じゃない、大変な仕事だ。だけどきっと喜んでやっている気がする。でなきゃあ、ハチミツもっと苦いと思うんだ。」
ミツバチの羽音だけが聞こえていた。
おばさんも箱のそばに腰をかけてだまってタカシとおじさんの顔を見つめていた。
タカシは立ち上がるときっぱり言った。
「おじさん、おばさん今までありがとう。僕これから塾に行ってくる。」
おじさんとおばさんは顔を見合わせ声を合わせてタカシの背中に向かって言った。
「タカシ君、いってらっしゃい。」
塾が終わって家に帰り着くと九時近かった。
お父さんも珍しくもう帰ってきていた。多分お母さんが電話でもしたのだろう。
タカシの顔を見てお母さんが何か言おうと口を開けた。でもそれよりはやく、タカシは大きな声で言った。
「おかあさん、今まで塾さぼってごめんなさい。僕、学校でできない勉強をしていました。これからはちゃんと塾に行く。そしてきっと星大附属に合格する。 でも合格したら、僕好きなことをしたいんだ。勉強ばっかりはイヤダ。」
お母さんは呆気にとられたみたいだけどすぐに我に帰って言った。
「答えになってないわ。どこに行っていたのかなぜ言わないの?学校でできない勉強って何?星大に受かったらそれで勉強は終わりじゃないわ。だってそれじゃ……。」
とまだ言いかけていたが、そばで聞いていたお父さんがお母さんを制止した。
「まあ、いいじゃないか。タカシは今こんなに頑張っている。人間ずーっと頑張り続けることなんて出来ないんだから、合格したらタカシの好きなこと、思いっきりやればいいさ。」
お母さんはまだ納得していないようだったけど、お父さんがなんとかなだめてくれた。
四月。
長く退屈な入学式がやっと終わった。
涙ぐんでいるお母さんを見てタカシはなんだか恥ずかしかった。
講堂から出てくると、事務員らしい人に呼び止められた。
「新一年生の戸塚タカシ君ですか?」
「はい、そうです。」
「ちょっとこちらへ。」
講堂から吐き出されるたくさんの生徒たちと父兄に押しつぶされそうになっていたので、事務の人が校舎の廊下まで連れて行ってくれた。
「あの、こんなものを預かっているんですが。」
事務の人の手の中に小さいけど重そうな包みがあった。
「星山大学附属中学校 新一年生 戸塚タカシ君へ」
小包の宛名にはそう書いてあった。
お母さんやお父さんが不思議そうに覗いていたので包みを開けてみた。
お母さんが思わず言った。
「あ、ハチミツ!」
薄い黄色のハチミツがひと瓶入っていた。
小さなカードにはこう書いてあった。
「おいしいハチミツが出来上がりました。
未来の昆虫博士さんへ」