健康食品、化粧品、はちみつ・自然食品の山田養蜂場。「ひとりの人の健康」のために大切な自然からの贈り物をお届けいたします。
慎吾さんは、アパートの三階にひとりで暮らしている。家族はいない。昔は、先生だったか、役所づとめだったか、とにかくカタい仕事をしていたらしい。
純(じゅん)は、慎吾さんのとなりの部屋に、お母さんとふたりで引っ越してきたばかりだった。
引っ越しのあいさつに行ったときだ。
「おじいさん、こんにちは」
純が言うと、慎吾さんは胸をそらした。
「わしの名前は『おじいさん』じゃない」
いっしょにいたお母さんは、あわてて頭を下げた。
「すみません。ええと…」
外に出ていた表札を思い出そうとしたらしいけど、お母さんはそこでつまってしまった。
「それなら、なんて名前なの?」
そう聞いたのは純だ。ちょっと腹がたっていた。本当いうと、そのころは腹のたつことばかりだったのだ。お父さんとお母さんが、もう夫婦でいるのをやめてしまったことだとか、小さいアパートに引っ越して、学校もかわらなければならないことだとか。そうしていなければ泣きだしそうだったから、純は腹をたてていた。
「こら、純」
お母さんが、小さい声でたしなめた。でも、純は、きゅっと唇をとがらして立っていた。
「わしは、野原慎吾という」
「おじいさん」は、重々しく言った。
「『慎吾さん』と呼んでいいぞ」
「慎吾さん…」
お母さんが、ちょっと驚いたように言った。
「で、あんたはなんていうんだ」
慎吾さんは純に言った。
「川原純。純って呼んでもいいよ」
純は、自分の名前をきっちり発音した。
ついこの前までは、「島田純」だった。
慎吾さんは、明るい声で笑った。笑うとちっとも恐そうじゃなかった。
「純ってのもいい名前だ。慎吾の次くらいだがな。よし、お隣同士だ。よろしくな、純」
純は、なんだか腹立ちのもっていきどころがなくなって、困ってしまったのだ。それでも礼儀知らずではなかったから、ちゃんと答えた。
「よろしく。慎吾さん」
その次の朝だった。純がベランダに出て今日から行く新しい学校の方角を見ていたら、隣からなにかぶつぶつ言う声が聞こえた。
「…おまえはなんだ。え? そりゃあ、ここには誰だって来てかまわんさ。しかし、見たことのない草だな。名前をしらべなくちゃならんな」
…なんだろう?
純は、隣のベランダとの仕切りから、そっと首をのばしてみた。
慎吾さんだ。慎吾さんのベランダは、まるで小さな草原だった。
ベランダに、何か工夫して土を入れたのだろうか。たたみ2枚ほどのスペースいっぱいに草が生えている。空き地によくあるような草だ。草に混じって花もある。黄色いのはタンポポ。小さな青いオオイヌノフグリ。赤紫のレンゲソウ。そして、それらの花々の上で、金色の点のようにミツバチが飛んでいた。
整然と手入れされた花壇やプランターとは全然違っていたけれど、そこはなんだか別世界のようだった。
つかまっていた仕切り壁が、ぎしっと音をたてた。慎吾さんが顔を上げた。
もじゃもじゃ眉毛の下から、ぎろりと純を見る。
「なんだ。そんなとこからのぞいておったのか」
純のほっぺたに血がのぼった。
「のぞき見しようと思ったんじゃないよ。何か話す声がするから…」
慎吾さんは、にやりと笑った。
「ひとりぐらしのじいさんの頭が、とうとうおかしくなったと思ったか。それより、どうだい。きれいだろうが」
純はうなずく。
「うん。でも、ハチに刺されない?」
「だいじょうぶ、ミツバチのやつら、わしを枯れ草かなんかだと思っとる。それにな、ミツバチは好きなんじゃ。元気がよくて、小さい命がきらきらしてるみたいじゃろ」
純は、慎吾さんが意外とロマンチックなことを言うので、返事に困った。
「そんなところじゃなく、ちゃんと玄関から入ってきて、ここにすわって見てみるといい」
「でも、もう学校へ行くから」
純が言うと、慎吾さんは、そうか、というようにうなずいた。
「転校第一日目だな」
「うん」
「なんとかなるさ」
「わかってる」
「よし、行っといで」
「うん」
「うん、じゃない。行ってきます、だろ」
慎吾さんのそっけない声は、なんだかはげましてくれているようでもあった。
「行ってきます、慎吾さん」
慎吾さんは、ちょっと笑った。
「ああ、気をつけてな、純」
純は、少し前まで「気をつけてな、純」と言ってくれた、別の男の人の声を思い出して、きゅっと鼻の奥が痛くなった。
純が、慎吾さんの「草原」を、本当に近くで見たのは、それからしばらくあとのことだ。
学校から帰ってきたら、アパートの階段に慎吾さんが腰をおろしていた。
「よう、お帰り、純」
「ただいま、慎吾さん」
そう言ってから、純は慎吾さんの様子がおかしいのに気づいた。
「…どうかしたの?」
「いや、たいしたことはないんだが」
慎吾さんは、悪いことをしているのを見つかったみたいに、ちょっと目をそらして言った。
「買い物帰りに、スーパーの前の側溝のふたですべっちまってなあ。あそこは、ちょっとぬれていたんだな」
慎吾さんの横には、買った物の入っているらしい手さげ袋が置いてある。
「足首をひねっちまった。で、これから階段を上る前に、ひと休みしとこうと思ってな」
「ふうん」
袋の中に、キャベツがあるのが見えた。
重いだろうな。これを片手で持って、片手で手すりにつかまって、痛む足をひきずって三階までの階段を一段一段上るとしたら…
純は、袋をとりあげた。
重い。けど、もちろん持っていけるさ。
「これ、僕が持って行く。慎吾さん、僕につかまってもいいよ。立てる?」
慎吾さんは、しばらく黙って純を見た。
「純なんぞにつかまらなくたって立てるさ。だが、せっかくの好意を無にしちゃいかんな」
厚い手のひらが純の肩にのって、ぐいっと力が加わった。純はよろけそうになって、あわてて足をふんばった。
初めて入った慎吾さんの部屋は、純のところとは違った匂いがした。純の手のひらは赤くなって、手さげ袋の持ち手のあとがついていた。
足首は腫れていたが、なんとか動かせるから医者に行くほどのことはないだろう、と慎吾さんは言った。
「その棚の上に救急箱があるから、とってくれ。湿布薬がまだあったはずだから」
純が言われたとおりに救急箱をとると、慎吾さんは自分で足首の手当をした。つん、と冷たい湿布の匂いがした。
貼った湿布の上から包帯を巻いてしまうと、慎吾さんはほうっとため息をついて純を見た。
「御苦労だったなあ。冷蔵庫に冷たいジュースがあるぞ。悪いが、自分で出して飲んでくれ」
純は、冷蔵庫を開けてジュースを出すついでに、慎吾さんの買い物袋の中にあったとうふやサケの切り身、牛乳などを冷蔵庫に入れた。キャベツや、ほかの野菜は、袋に入れたまま調理台の上に置いた。
「そうだ。ベランダ、見てもいい?」
純が聞くと、慎吾さんはうれしそうな顔をした。
「いいとも。見てごらん」
ジュースを持ったままガラスの引き戸を開けると、そこには小さな「草原」があった。
「すわって、草と同じ背丈になってごらん」
慎吾さんが言った。純は、腰をおろしてひざをかかえた。
すると、目の前に草の波が広がった。
「銀色の、子猫のしっぽみたいなのはチガヤだ。小さいわらじがぶらさがってるようなのは、コバンソウ。どうも、わしはな、きれいに整えられた栽培種の花よりも、こういうものが好きでなあ。ミツバチには、ちょっかい出さなきゃ刺されることはないからな」
慎吾さんがうしろから言う。純はベランダの「草原」を見わたした。
「この、背の高い草はなんなの?」
「どれだ」
「丸っこい小さい葉っぱがついた、細い茎のやつ。沢山あるよ」
「ああ、それか」
慎吾さんがため息をついた。
「そいつは新顔なんだ。わしが植えたわけじゃない。図鑑でしらべたが、なんなのかわからんのさ。まあ、花でも咲けば見当がつくだろう。てっぺんにつぼみがふくらみかけとるようだから」
「ふうん」
そのとき、「草原」の土がちょっと動いたような気がした。
なんだろう?
純がじっと見ていると、ふいに土がぽこっと割れて、そこからつやつやした黒い頭がのぞいた…
「慎吾さん!」
「なんだ」
「これ…」
慎吾さんが、足をかばいながら立ち上がる気配がした。
「どうした」
黒い頭は、空気の匂いをかぐように、とがった鼻の先をふるわせた。
「純は、モグラを見たことがないのか」
「…モグラ?」
「そうじゃ。モグラだよ」
「でも…、でも、この土ってどのくらいの深さがあるの? この下…ベランダのコンクリートだよね…?」
このモグラはどこから来たんだろう。
純がまばたきもできないでいる間に、黒い頭はさっと土の中にひっこんでしまった。 「まあ、こういうこともあるのさ」
慎吾さんは、あっさりと言った。
「わしがベランダに作ったこの『草原』は、どこかにある本物の草原とつながっているのかもしれないな」
「そんなこと…」
純が口を開くと、慎吾さんは笑った。
「若いころだったら、わしはここを掘り返して、下のコンクリートをごつごつたたいて、何もかもぶちこわしにしてたかもしれん。でもなあ」
純の方を見た。
「『どうしてモグラがこんなところに来るか』を知ることよりも、『モグラが来る草原がある』ことの方が大事になったんだよ。今はな」
純は、それからときどき慎吾さんの「草原」を見せてもらいに行くようになった。不思議な「草原」だった。風のない日でも、ベランダの「草原」の草花たちは、どこか別 の場所の風に吹かれてゆれていることがあったし、慎吾さんも名前を知らないといったあの背の高い草は、見たこともない黄色い花をつけはじめていた。
「ミツバチみたいな花だ」
ちょうど飛んできたミツバチを見て、純がそう言うと、慎吾さんもうなずいた。
「金みたいな黄色で、雄しべに黒いところがあって、そうだ。たしかに、ミツバチみたいな花だな」
それで、ふたりはこの草を「ミツバチソウ」と呼ぶことにしたのだ。
「『草原』見せてくれる?」
やってきたときから、純の声の調子が、なんだか違うような気はした。でも、慎吾さんは何も言わなかった。
「いいとも。今学校の帰りか?
今日は、ちょっと遅かったんだな」
純は、ベランダへのガラス戸を開けて、ひざを抱えてすわりこんだ。
ベランダには、一面にミツバチソウが咲いていた。草丈は高いけれど、細くて葉も小さいので、まるで金色の花だけが浮いているように見えた。風で動くと、本物のミツバチと見分けがつかないようだった。
「…お父さんがね」
純がぽつりと言った。
「お父さん、アメリカに行くんだって。仕事の関係で」
慎吾さんは何も言わなかった。純がときどきお父さんに会いに行くのは知っていた。でも、アメリカじゃ、そういうわけにはいかなくなる…
「お父さんは、新しい奥さんを連れて行くんだよ」
ひざを抱えた純の指に、力が入るのがわかった。
「…僕、今日その人に会ったんだ。お父さんが会ってほしいって。そしたら、その人ね…」
純の声が少しとぎれた。
「その人、…いい人だったんだ。すごく」
「そりゃ、よかったじゃないか」
慎吾さんが言うと、純はうなずいた。
「うん。…でも、その人のこと、いい人だと思うと、なんだかお母さんに悪いような気がするんだ。そしてね、なんだか腹がたつんだ。なぜなのかわからないけど。だって、僕はお父さんとお母さんが、別れなきゃならなかったっていうの、わかるんだ。ふたりが暗い顔をしてたときより、今の方がずっといい。それなのに」
慎吾さんは、黙って純のとなりに腰をおろし、純と同じようにひざを抱えた。
「お父さんといっしょに行く人が、いい人でよかったな。いい人をいい人だと思える純でよかったな。お母さんは、おまえを上手に育てたんだ」
慎吾さんは、純の横顔を見た。
「腹がたつなら、たてたらいいさ。純はいい子に育ってるんだ。そういう子は心の思うとおりにしてても間違いない」
純が、ちょっと変な声で笑った。
「『いい子』だなんて、小さい子みたいだ」
「いくつだって、いい子はいい子さ」
ふたりは、しばらく黙って「草原」を見ていた。本物のミツバチと、ミツバチソウが、競い合うようにきらきら光った。
その日は、なんだか朝から体が妙に軽くて、頭がふわふわするような気がしたから、慎吾さんは用心してアパートにいることにした。こんな風船のような気分でいるときに出歩いて、また足でもくじいちゃたまらない。
しぶいお茶をいれて、ベランダの戸を開け、いつものようにすわりこむ。
地面の近くにタツナミソウの紫が見える。ヒメジョオンはもう終わりそうだ。そして、ミツバチソウはますます沢山の花をつけて、風にゆれて本物のミツバチの群れのように踊った。
下の道路から、小さいこどもの声が聞こえる。お母さんと幼稚園に行くところなのかもしれない。
慎吾さんは家族を持たなかった。戦争で、両親も、弟や妹も、姉も、姉の小さい赤ん坊もみんな奪われてしまって以来、大切な人を失うことになるのがこわくて、結婚して家族をつくることができなかった。
おくびょうだったなあ、わしは。
慎吾さんは思った。
血のつながりのある家族はなくても、心のつながりのある大切な人は沢山いる。それなら、こわがってないで自分の家族だってあってもよかったんだ。
慎吾さんが姿勢を変えたはずみに、湯のみが倒れてしまった。
「おっと」
雑巾をとろうと立ち上がって、目の前の光景に、慎吾さんは目をみはった。
「草原」がはてしなく続いていた。
ベランダの柵はいつのまにかなくなり、金色の草原がどこまでもどこまでも広がっていた。
「そうか」
慎吾さんはうなずいた。
「今朝から体が軽かったのは、こういうことだったのか。わしは、今からこの草原を行くんだ」
慎吾さんは、金色の花が咲く草原に、一歩足を踏み入れた。部屋をふりかえると、倒れた湯のみと、壁にもたれて眠っているような老人が見えた。
純にさよならを言いたかったな。
慎吾さんは、ちょっと首をふって、まっすぐ前を向いた。草原のかなたに、手を振っている人々の姿が見えるような気がした。
ああ、父さんと母さんだ。わしの家族だ。わしはこんなじいさんになって、それでもわかってくれるだろうか。
慎吾さんは歩き出した。一足ごとに、体はますます軽くなり、心はいよいよ澄みきってくるような気がした。
純は、楽しい気分で学校から帰ってきた。友だちができたのだ。昼休みの図書室で、ぐうぜん同時に同じ本をとろうと手を伸ばした子。これまで純が読んできた本の大部分をその子も読んでいたことを知って、ふたりでたくさん話をしたのだった。その子は、あした、純がまだ読んでいない本を持ってきて貸してくれると言った…
アパートの見えるところまでやってきたとき、純は思わず立ち止まった。
三階のベランダから、金色の光が空にのびている…? まるで、天に昇る階段みたいだ。
そのとき、金色の点がひとつ、すうっと降りてきた。ミツバチだ。慎吾さんは、ミツバチのことを「小さい命がきらきらしてる」と言ったっけ。
ミツバチは、純の耳もとでぶーん、とささやいた。
ジュンハ、イイコダ
不意に、胸のうちがざわっとした。
慎吾さん。
純は、目を見開いて空を見つめた。午後の陽ざしにあふれた空はまぶしくて、やがて涙がにじんできた。