|
翌日峠を越えて西の谷を訪ねた。デンイチは農学の書物をもらった。しかし字が読めない。字を教えてほしい、と頼むと、和作は首を振った。自分も読めない、という。ならばなぜ書物なんぞ持っているか。デンイチがいぶかしむと「本を持ってさっさと帰れ」と目を吊り上げた。
デンイチは村に帰ると書物の図版を頼りに巣箱を作った。
日中は野良で働き、日が暮れると玉沢の寺に通った。和尚に字を習った。
書物にはそれまで考えもしなかったことが書かれていた。
「こいつはすごいぞ」
デンイチは村の者に伝えた。
「竹で急場の導水管を作るんだ。ずいぶん手間が省けるらしい。しばらくもてばいい。それからな、蜂が来るようにしよう。蜜のためだけじゃない。作物がよく育つらしいぞ」
「なにいってる。竹で用水なんぞまかなえるかよ。どうせ手間をかけるならちゃんと掘らにゃあな」
「蜂が来ると、米が採れるってか? 冗談ぬかすな。蜂が来たって刺されるだけでいいことなんかねえ」
みんな取り合わなかった。
デンイチはこの村が他所より貧しかった理由に気づいた。ミカにぐちった。
「ものをしらねえ」
ミカはいった。
「ねえ。あんたのいうことは書物に書いてあることだがね。あんたはなんでそれを正しいと思ったんだ?」
「そんなもんあたりまえだが。本はえらい人が書いたで正しいが」
デンイチは顔をしかめた。いいながらなにかおかしいと感じた。
翌日和尚にたずねた。
「本に書いてあることは正しいですか」
「正しくない」
「えっ? じゃあ、仏様の本はどうなんです」
和尚は仏像に向いて背中でいった。「正しくないぞよ」
デンイチはおどろいた。本堂に上がる階段にいたが、うしろに踏み外しそうになった。
「書いてあることがかなうか否か、試すよりない。試してそのとおりになったとしても、正しいとは限らない。それが物の理だ。楽ではない。試してみろ。すでに書かれたことを越えようとしてみろ」
和尚の向こうですすけた仏像がデンイチを見下ろしていた。
「やってみろ」そういっている目だった。
デンイチは寺を出た。と入れ代わりに巌谷屋がやってきた。
「和尚様。なかなか賢そうなこどもでございましょう」
「たしかにな。目の中に喜怒哀楽がある」和尚はにやりとわらった。「書を授けたのはおまえさんであろう?」
巌谷屋は知らぬ顔で空を見上げた。
寺を出て道々デンイチは考えた。やってみよう。まずは壊れた用水だ。しかしやろうにも一人では出来ない。どうしたら村の人たちがやる気になるか?
「そうだ。オバアにたのんでみよう。オバアのいうことを聞かない村人を見たことがない」
デンイチはパアッと花咲くような顔をして走りだした。一目散に神社へ駆けた。オバアは騒動にさすがに疲れたのか、むしろに寝ころんでいた。その元へ滑り込むように腰をおろした。
「オバア、頼みがあるが」デンイチは本に書いてあることを伝えた。「おれは理にかなうと思う。オバアの口からみなを説得してくれ」
オバアは寝転んだ体を起こし正座した。
「わしにはできんな」
「なぜだ。オバアも本に書いてあることをうたがうのか」
「いや。おそらくそのとおりかなうだろう」
「じゃあ、そう村の者にいってくれ」
「わしがいっても村の者は聞かんよ」
「まさか。オバアがいえばだれでも聞く」
オバアは首を振った。自分の話をみなが聞いたのは、自分がほんもののことしかいわなかったからだ、といった。デンイチが本で読んだ話を又聞きに伝えても、それはほんものではない。オバアはきびしい目でデンイチを見た。
「おまえがほんものをいえば、人々は聞くだろう」
「ほんものだって?」
「おまえの話をほんものにするには、おまえがほんものになるしかない。ほんもののおまえのことばは人の心を打つだろう」
デンイチは肝をつかまれた気がした。無言で立って神社を去った。
|