|
私は路地を抜け河原の方面まで走った。すると厄介千万見知らぬ通りに出てしまった。
表通りとは一変してこの界隈はどの屋敷からも行灯の光とにぎやかな笑い声がこぼれ出ている。旨そうな匂いもする。
ここは、旨いものには目がない私のためにあるような料亭横丁だったのだ。一軒の料亭をのぞいていたら、
一人の若い仲居が声をかけてきた。
「おや、旦那ってば疲れた顔しちゃって。あがって休んで行きなさいな。美味い蜂蜜酒でもごちそうしてやるよ。ほら、入った入った。」
仲居は力任せに私の腕をぐいとひいて、お座敷へ招き入れた。彼女は「ひろ」といった。この女のよくしゃべること!
「旦那お仕事は何なさってんだい?やっぱり蜜屋?それとも養蜂かい?もし蜂蜜に余りがあったらあたいに少し分けておくれよ。
近頃、妖怪騒動で蜂蜜が値上がりしちまって、とてもあたいのお給料じゃあ手が届かなくてね。ねえ、旦那はどこの蜜屋なの?」
「わた、おれは…流れ者さ。」
私はとっさに嘘を言った。
「この町に働きに来たってことかい?ねえ、そんならお故郷はどこなんだい?」
「あっち、いやむこうの方。」
私はお城のそびえる山を指し、そのむこうだと言った。
「おや本当かい?じゃあ蜂飼い村の方だね。あたいもあの村の出なんだ。同郷のものに会えるなんて思ってもみなかったけど
嬉しいもんだね。おや旦那、お酒が進まないじゃないか。お口に合わなかったかい?」
「おれは…その、下戸なんだ。」
「まあ嫌だ。そんならもっと早くお言いよ。代わりに何か…あ、そうだ。」
ひろは何か思いついた様子で袂に手を突っ込んだ。
「同郷の好だもんね。一さじごちそうするよ。」
取り出したのは赤い茶巾に入った小さなつぼだった。
「今となっては貴重品だよ。ひいきにしてもらってる蜜屋に無理言ってもらったんだ。たった一さじでも口に入れれば
疲れなんて吹っ飛んじまうよ。なんせこの一さじは赤子蜂のために姉御の蜂が命をかけて集めた蜜の一生分なんだもの。」
そんなこと、これまで考えたこともなかった。ひろは、さじいっぱいにのせた蜜をぼんぼりの明かりにきらめかせながら
私の口もとへ運んだ。蜜が口の中でほどけて広がる。
「ん、…美味い!」
これまで口にしてきたものとは比べ物にならない。格別に美味かった。
「ほうら、疲れてるのなんか忘れちまうだろう?」
「お前もこいつをなめてるおかげでそんなに元気がよいのだな。」
「あはは、あたいが元気なのはもとからだよ。この蜂蜜はお故郷への土産なのさ。
おかしな話だけど、村の者は自分とこでとれた蜜を滅多に口にできないんだ。みんな年貢にもってかれちまうからね。
封を切ったのはあんたが疲れてる顔してたからよ。同郷の者と聞いてじいちゃんを思い出したんだ。
お父が戦で死んでね、おととしお母も病気で死んじまってさ。
じいちゃんは今、一人で養蜂の下働きしてちっちゃい弟や妹を育ててくれてるの。
あたいがこっちで稼げるようになったから、少しは楽になったかと思ってたのに、この妖怪騒ぎで客足が減っちまってさ。
今年の暮れには土産物たくさん抱えて帰ろうと思ってたけど、この調子じゃ餅も買えないわ。」
「ひろはいくつなんだ。」
「あたい?あたいは十五よ。」
「十五で出稼ぎか。辛かろうに。」
「そりゃあ…そういうこともあるさ。」
ひろは八重歯で唇をかみ、顔を背けた。その瞬間、横顔に十五の少女の本音がちらりと見えた気がした。
可愛い。私の視線は彼女に釘付けだった。
「でもあたいは蜜蜂なのよ。故郷を出る前じいちゃんから聞いたの。働き蜂はみんな女子なんだって。
赤子のために命がけで一生働いて、もし敵が攻めてきたら戦をするのも女子の蜂が力を合わせるんだって。
それを聞いてね…あたいは、ここで蜜蜂になったつもりで働こうって決めたんだ。」
「先ほどの蜂蜜はお前の気持ちそのものだったのか。大事な土産物であったのに封を切らせてしまって悪かったね、ひろ。」
「いいんだよ。悪いのはお殿さんだもの。」
「え、私!」
「旦那じゃない、お殿さんだよ。年貢の取立て高があんまり厳しすぎるのさ。
取り立てたあげく、みんな一人でたいらげちまうって言うんだから呆れた人だね。おまけにおかしな妖怪まで出てきちまってさ。」
私は愚か者であった。私がこの情けない殿であることがひろにバレてしまったら…。
私はひろには嫌われたくなかった。ここは一つ年貢を取りやめ、あの妖怪を退治し汚名返上といきたいところだ。
格好のいいところをみせればひろの賞賛を独り占めできる…そう思うと、がぜん妖怪を退治する気がおきた。
そのとき、妖怪に怖がってもいられない、という御用人の言葉が私の脳裏をよぎった。
「ひろ、心配はいらん。本日限りで年貢制度は廃止だ。おれが馬鹿な殿にきつく申し立ててやる。
あんたのせいで町や村の衆がどれほど困っているか、とな。それから妖怪も一刻も早く退治するように話をつけよう。」
「本当かい!そうか、分かった。旦那はお城で働いているお役人さんなんだね。旦那と会えたのも何かの縁ね。
今夜のお代はとらないから、その件どうか頼んだよ。」
ひろは行灯の灯を瞳に浮かべて元気に言った。まかせておけ、と私は請合った。
|