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翌朝、陸雄は学校にゆく道、木下さんの家の前を通りました。戸がぴたりと閉じて、葬式の気配はなく、ただ線香のにおいがかすかにただようのをかぎました。
どうしているんだろう。陸雄は振り向き振り向き歩きました。
おとうさんが死んだら、おかあさんもあんなになるだろうか。自分はどうするだろうか。ああ、ご無事でご無事で帰りんさい。
学校の帰り、陸雄は、五人ばかりのともだちといっしょに、畳屋の勇太の家に寄りました。家の前までくると、みんなが「お金持ちのにおい」と呼んでいる、いぐさの良い香りがしました。
軒先に、学校の道具を放って、さあなにをして遊ぼうか、と相談していると、作業場の奥の暗いところから、勇太のおとうさんがゆらりと現れました。
「いいもんやるからそこに並んで口開けろ」
「おっちゃん、ハチミツか」次郎が聞きました。
「ほれほれ並べ」おじさんはにこにこわらってせかしました。
みんな押し合いへし合いしながら、一列に並びました。
おじさんが、ハチの巣を手でしぼると、つーっと糸のようにミツがたれてきます。力を抜くと、ぽた、ぽたっとしずくになって止まります。そしてまた次の子の口の上で、つーっとたらします。
陸雄の番になりました。あんぐり開けた口に、とろりとミツが落ちてきました。いぐさの香りに、ハチミツのにおいが混じり、花畑にでも埋もれているような気がします。
「さあ終わりだ」
最後の子の口の上で、ぎゅっと握りしめたハチの巣を、おじさんはゴミ箱の中に放り、太い指をなめながら、奥に戻っていきました。
陸雄は、風呂桶のように大きなゴミ箱をのぞき込みました。縮んだ蜂の巣が、いぐさの切れ端の上にありました。それをこっそり拾い、ポケットに隠しました。
「おれ、用事思い出した」
陸雄は荷物をつかみ、家に向かって駆けました。
家の前まで走って、ポケットから取り出すと、ハチの巣はほこりにまみれて毛糸玉のようでした。ちぇっ、と舌打ちして、陸雄はアサガオの植木鉢のあいだに捨てました。
ベタベタになったポケットを引っぱり出して、桶の水で洗っていると、洋介が窓から首を出しました。
「兄ちゃん、なにしてるんだ」
「うるさいな」
「しっこもらしたのか」
「もらすもんか」おまえのせいだぞ、といいかけてぐっと唇を結びました。
次の日登校すると、みんなが陸雄をからかいました。
「やーい、ハチの巣どろぼう」
陸雄がゴミ箱からハチの巣を拾っていくのを、だれかが見ていました。
「泥棒のゴミ拾い。泥棒の弟、肺病だ」次郎が節をつけて歌い踊りました。
「だまれよ」陸雄は次郎をつきとばしました。
「やったな」
次郎が陸雄に飛びかかり、ふたりは教室の床にころがりました。
放課後、陸雄は職員室に残されました。
「おまえが泥棒だ、という者がいるが」
暑いのに、背広をきた小林先生が、メガネの向こうの鋭い目で陸雄をにらみました。
「ちがいます」
「なにがあったのかね」
「おじさんが捨てたハチの巣をゴミ箱から拾ったんです」
「拾ったのか」
小林先生は、机に頬杖ついて目を伏せました。しばらくしてやさしい声でたずねました。
「洋介の調子はどうだ」
陸雄は、ぎゅうっと唇をかみました。
「弟にも食わしてやりたかったんだな」
陸雄は腕でぐいぐいと涙をぬぐいました。
「先生。ハチの巣のあるとこ、知らないか」
「ハチの巣か」小林先生は腕を組んで考え込みました。
一週間ほどすると、小林先生が、大きなハチの巣のあるところを見つけてくれました。放課後、先生と陸雄は連れ立って、山を削ったあとのがけにゆきました。
「ほら、あそこだ」
小林先生が指さした先を見上げると、赤土の斜面の途中に、潅木がところどころはえていて、そのうちのひとつに、一抱えもありそうなハチの巣がありました。表面にハチがうごめき、また、その形がぼやけて見えるほど、周囲を飛び交っていました。
「うわあ、でっけえ」
「まず、道具をそろえてだな」先生がいうのにかさねて
「おれ、持ってきた。とうさんのメガネ」
陸雄はいうなり、おとうさんがオートバイに乗るのに使っていたゴーグルをかけて、がけにとりつきました。
「おい、だめだ。あぶないぞ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
陸雄は猿のように、すいすいとがけを登ってゆきます。先生が何度呼んでも、耳に入らないようでした。あっというまに、無数の羽音がうるさく聞えるほどのところまで登りました。
「すげえ。先生、ハチの玉だ」
「そうか。気をつけろ」
「星だ、星だ。宇宙みたいだあ」
「星か。とれそうか」
「先生、でっかいハチがいる」
「女王蜂か。スズメバチかもしれん。気をつけろ」
「ハチが、おれになにかいってる」
先生は、陸雄がどうかしてしまったのか、と心配になり大きな声で呼びました。
「陸雄、陸雄」
「ああ、おれの名前を呼んでる」
「ばか。呼んでいるのは、先生だ」
「ああ、そっか。でも、ハチもなんかいってるみたいだ」
陸雄は、もぞもぞと動く女王蜂を見つめました。
なあ、ハチの母ちゃん、おれの弟、病気なんだ。少しミツをわけとくれ。
すると女王蜂がくるりと輪を描きました。
「ここ、とっていいのか」
陸雄はポケットから肥後の守を取り出して開きました。昨日の夜熱心に研いだ刃先を、ゆっくりハチの巣に埋めました。
「さあさあ、ハチさん、どいとくれ」
陸雄は、ハチを切らないように、巣をさいていきました。丼いっぱいほどの巣がとれると、襟元から服の中に入れました。
「おい、だいじょうぶだったか」
がけから降りた陸雄の体を、小林先生はあちこち見回しました。
「平気さ。先生。ありがとう」陸雄は駆け出しました。
駆けて駆けて、息せき切って家にたどりつきました。
「おい、洋介。いいもんやるぞ」
眠っていた洋介は、ぼんやりと目を開けました。その鼻が、すぐににおいをかぎつけました。
「ねえ、なにを持っているの」
「ハチミツだ。上を向いて口開けろ」
洋介が、いわれたとおりにすると、陸雄は巣をわしづかみにしてミツをたらしました。
「うまいだろう」
「ああ、あはは」
洋介はわらってしまい、体を揺すりました。陸雄もわらってしまい、狙いが定まりません。そのうちミツが洋介の顔に丸く円を描きました。
「わあ、やめてくれよう」
もう、おかしくておかしくて、ふたりは大笑いしながら、ミツでベタベタになりました。
外に出て、洋介は顔を、陸雄は服と腹を洗いました。
冷えたのか、洋介は、コンコン、と何度かセキをし、ふとんに戻りました。陸雄は濡れた服を着て、縁側に座りました。
暖かな陽射しが庭にふっていました。小さな花壇に並んだチューリップが、光を注いだコップのように輝いていました。
「戦争はいつ終わるのかな」
洋介が、大人のようなことをいい、陸雄はおどろいて振り向きました。薄暗い部屋に、白いふとんが、からだの形にふくらんでいました。洋介の目は、赤くはれて見えました。「うん」陸雄が、ただうなずくと、洋介はいいました。
「戦争は、せんそうがいいなあ」
「なんだって」
「ふふふ」洋介は陸雄のほうに顔を向けました。その顔を、ふとんに隠しながらいいました。
「せんほうがいいなあ」
「ばっかなこといってらあ」
陸雄は、向き直って庭を眺めました。一匹のミツバチが、花壇の上を、ゴムで吊るしたように、上へ下へ飛んでいました。
陸雄は、また部屋の中に向けて身をよじりました。
「なあ。さっきみたいなこと、人にいっちゃだめだぞ」
洋介は目を閉じていました。陸雄はじっと弟の姿を見ました。ふとんの胸のあたりがゆっくり浮き沈みして、かすかな寝息が聞えました。
ハチが障子のあたりを行き来して小さな羽音をたてました。
「洋介のこと、見にきたんか。ありがとな」
陸雄がほほえむと、ハチはらせんを描いて飛び、ただ青い空が頭上に残りました。
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