|
トントン。
なにか音がしました。
陸雄が隣の部屋の弟にたずねました。
「おまえ、いま、セキしたか」
「ううん。しとらんよ」
洋介はふとんの中でこたえると、コンコン、とセキをしました。
「やっぱりしたんじゃないか」
「ううん。さっきのは、だれかが戸をたたいたんだよ」
陸雄はのろのろと立ち上がりました。ほんとうは最初から、だれかが来たと知っていたのに、借りてきた雑誌に夢中で、玄関にいきたくありませんでした。
洋介が元気で、近くにいたのなら「おまえが行け」とけとばして命令するところです。けれども洋介の病気が悪くなって、昼も寝ているようになってからは、そうもいきません。
陸雄は、ふとんをまたいで、洋介の寝ている部屋を通り抜けました。
玄関のガラス戸に、西日があたって、訪ねて来ただれかの影が映っていました。こんな光景を見たことがあるなあ、と思いながら、陸雄は戸を開けました。
だぶだぶの白いワイシャツと黒いズボンを腰のベルトでぎゅっとしめた、隣組の組長さんがいました。
「陸ちゃん、かあさんはまだ帰らないかい」
「うん。まだだよ」
「じゃあ、伝えてくれるかな」
「うん。いいよ」
「木下さんのだんなさんが戦死されたんだ」
「ふうん」
木下さんというのは、一年ほど前に、近所に引っ越してきた若い夫婦で、引っ越してきたとたんに、だんなさんは出征していました。奥さんは昼間工場で働いて、あまり家にいないので、陸雄はどんな人かよく知らないままでした。
組長さんは「じゃあ、頼んだよ」と陸雄の頭をなでました。タバコのにおいがしました。陸雄はおとうさんを思い出しました。
おとうさんも、戦地で死んでしまうのだろうか。
陸雄は、西の空に燃えている太陽を見ました。大陸にいるおとうさんは、あの太陽の真下あたりだろうか。
陸雄は胸に手を当てて、おかあさんに教わったまじないを唱えました。
「ご無事で、ご無事で、帰りんさい」
それがすむと、弾むように、洋介の寝ている部屋に飛び込みました。
「おい、葬式だぞ」
洋介は、不安そうな顔で、兄を見ました。
「どこで」
「木下さんちだ」
「へえ」
「おまえは、会ったことがないだろう」
「うん、ないよ」
「まんじゅう、もらってきてやる」
「ほんとうかい」
洋介が、目をかがやかせました。陸雄は、しまった、と思いました。そんな期待を持たせても、必ず手に入るとはかぎりません。
「うん。きっとあると思うんだがな」
ぼそぼそいうと、もう洋介を見ないで、外に飛び出しました。路地を表通りのほうへ、下駄を鳴らして駆けました。
木下さんの開け放しの玄関に着くと、土間に富田のおばさんが立っていました。
「陸ちゃん。名代でお悔やみかい」
陸雄は、なにをいわれたかわからないのに、ほめられた気になって「えへへ」と頭をかきました。
家の中をのぞきこむと、薄暗い部屋に、男の人が四人いました。座布団も敷かず、畳の上にあぐらをかいて、けわしい顔をして話していました。
陸雄は畳から、たんすの上まで、平らなところに全部目をやりました。けれどまんじゅうはおろか、水をくんだ茶碗ひとつ見つけられません。がっかりして、富田のおばさんにたずねました。
「ねえ、葬式じゃないの」
「今日、公報が来たんだ。葬式は明日さ」
「ふうん」
以前、大島さんのおじさんが戦死したとき、葬式はたいそう盛大で、食べ切れないほどの料理やお菓子が並んでいました。
「明日になったら、まんじゅう出るかなあ」
陸雄がいうと富田のおばさんは顔を真っ赤にしました。ふうふうと鼻息を荒くして、こわい目で陸雄をにらみました。
「この子は、人が死んだってのに」
がさがさの指が陸雄の耳をつまみ、力まかせにねじり上げました。
「いてててて」
陸雄がわめくと、すぐにおばさんの指から力がぬけました。
「ああ、ごめんよ。痛かったかい」やさしく耳をさすってくれました。「おなかがへっているんだよね」
そういうと、おばさんは、ぽろぽろと涙を流しはじめました。
陸雄はなにがなんだかわからなくとも、話をあわせて 「うん。ぺこぺこだあ」とおなかをさすってみせました。
「かわいそうに、かわいそうに」
富田のおばさんはずるずる鼻をすすりながら、陸雄の頭や肩をなでました。
陸雄は、もう五年生なのに、おばさんにべたべた触られて、小さい子のようで、恥ずかしくなりました。それに、食べ物もないのでは、いつまでもこんなところにいる甲斐はありません。
「おれ。洋介の子守りがあるから」
そういって、おばさんの手を逃れようとしたとき、どこからか叫び声が近づいてくるのを聞きました。
富田のおばさんは、またこわい顔になりました。陸雄を放して、外に出ていきました。
陸雄は、ふうっと息をつきました。
おばさんはどこにいったんだろう、あの叫び声はなんだろう。
と路地へ出ると、紺のモンペの女の人が、大きな声で泣き叫びながら、こちらへやってくるのが見えました。軒先の植木鉢や七輪や、バケツにつまづいてはよろけ、家々の壁に体当たりするように歩いていました。油だらけの手ぬぐいで、ときおり顔をこするので、目や鼻の周りが真っ黒でした。
富田のおばさんもまた泣きながら、女の人を抱きかかえ、二人の長い影が、陸雄の足元で動かなくなりました。
女の人の、腹の底から絞り出すような泣き声が、陸雄のまつげを震わせました。やがて歩きはじめた二人は、立ちすくんだ陸雄の前を通り過ぎ、木下さんの玄関に入りました。女の人は、もう叫ぶのをやめ、富田のおばさんの手ぬぐいで、顔をきれいにぬぐってもらいました。玄関の床に座ったとき、白い肌をめくりあげたような、真っ赤なまぶたが見えました。
陸雄が家に戻ると、洋介がたずねました。
「兄ちゃん。まんじゅうもらえたか」
陸雄は、きっと洋介をにらみました。
「ばか。人が死んだんだぞ」
洋介の顔にあった、やさしいほほえみが、しゅんとしぼんで消えました。
夜、ふとんに入ったとき、陸雄はおかあさんに聞きました。
「ねえ。大島さんちは、葬式で金持ちになったんだろう」
「葬儀屋でもないのに、葬式で金持ちになるもんかい」
「だって、みんないってたじゃないか」
「あれは、海軍からゼゼがもらえたんだよ」
「へえ。じゃ、木下さんちももらえるかい」
「二等兵には、くれないよ」
「くれないのか」陸雄は電球を見つめながら、木下さんの顔を思い浮かべました。ふと心配になって聞きました。
「とうさんは二等兵かい」
「上等兵だよ」
「上等兵かあ」
陸雄がうっとりいうと、となりの部屋で洋介がいいました。
「上等な上等兵」そしてくすくすわらいました。
「ばっかだなあ」陸雄はいいましたが、やはりおかしくて、くすくすわらいました。
「へんなこといって」おかあさんは電球をパチンと消しました。
おかあさんと陸雄はこっちの部屋、病気の洋介はあっちの部屋、暗い中でしんとしていましたが、みんなしてわらいをこらえているのが、息づかいでわかりました。
そうすると、もうおかしくておかしくて、みんなで大声でわらいました。
|