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初めて入った慎吾さんの部屋は、純のところとは違った匂いがした。純の手のひらは赤くなって、手さげ袋の持ち手のあとがついていた。
足首は腫れていたが、なんとか動かせるから医者に行くほどのことはないだろう、と慎吾さんは言った。
「その棚の上に救急箱があるから、とってくれ。湿布薬がまだあったはずだから」
純が言われたとおりに救急箱をとると、慎吾さんは自分で足首の手当をした。つん、と冷たい湿布の匂いがした。
貼った湿布の上から包帯を巻いてしまうと、慎吾さんはほうっとため息をついて純を見た。
「御苦労だったなあ。冷蔵庫に冷たいジュースがあるぞ。悪いが、自分で出して飲んでくれ」
純は、冷蔵庫を開けてジュースを出すついでに、慎吾さんの買い物袋の中にあったとうふやサケの切り身、牛乳などを冷蔵庫に入れた。キャベツや、ほかの野菜は、袋に入れたまま調理台の上に置いた。
「そうだ。ベランダ、見てもいい?」
純が聞くと、慎吾さんはうれしそうな顔をした。
「いいとも。見てごらん」
ジュースを持ったままガラスの引き戸を開けると、そこには小さな「草原」があった。
「すわって、草と同じ背丈になってごらん」
慎吾さんが言った。純は、腰をおろしてひざをかかえた。
すると、目の前に草の波が広がった。
「銀色の、子猫のしっぽみたいなのはチガヤだ。小さいわらじがぶらさがってるようなのは、コバンソウ。どうも、わしはな、きれいに整えられた栽培種の花よりも、こういうものが好きでなあ。ミツバチには、ちょっかい出さなきゃ刺されることはないからな」
慎吾さんがうしろから言う。純はベランダの「草原」を見わたした。
「この、背の高い草はなんなの?」
「どれだ」
「丸っこい小さい葉っぱがついた、細い茎のやつ。沢山あるよ」
「ああ、それか」
慎吾さんがため息をついた。
「そいつは新顔なんだ。わしが植えたわけじゃない。図鑑でしらべたが、なんなのかわからんのさ。まあ、花でも咲けば見当がつくだろう。てっぺんにつぼみがふくらみかけとるようだから」
「ふうん」
そのとき、「草原」の土がちょっと動いたような気がした。
なんだろう?
純がじっと見ていると、ふいに土がぽこっと割れて、そこからつやつやした黒い頭がのぞいた…
「慎吾さん!」
「なんだ」
「これ…」
慎吾さんが、足をかばいながら立ち上がる気配がした。
「どうした」
黒い頭は、空気の匂いをかぐように、とがった鼻の先をふるわせた。
「純は、モグラを見たことがないのか」
「…モグラ?」
「そうじゃ。モグラだよ」
「でも…、でも、この土ってどのくらいの深さがあるの? この下…ベランダのコンクリートだよね…?」
このモグラはどこから来たんだろう。
純がまばたきもできないでいる間に、黒い頭はさっと土の中にひっこんでしまった。
「まあ、こういうこともあるのさ」
慎吾さんは、あっさりと言った。
「わしがベランダに作ったこの『草原』は、どこかにある本物の草原とつながっているのかもしれないな」
「そんなこと…」
純が口を開くと、慎吾さんは笑った。
「若いころだったら、わしはここを掘り返して、下のコンクリートをごつごつたたいて、何もかもぶちこわしにしてたかもしれん。でもなあ」
純の方を見た。
「『どうしてモグラがこんなところに来るか』を知ることよりも、『モグラが来る草原がある』ことの方が大事になったんだよ。今はな」
純は、それからときどき慎吾さんの「草原」を見せてもらいに行くようになった。不思議な「草原」だった。風のない日でも、ベランダの「草原」の草花たちは、どこか別
の場所の風に吹かれてゆれていることがあったし、慎吾さんも名前を知らないといったあの背の高い草は、見たこともない黄色い花をつけはじめていた。
「ミツバチみたいな花だ」
ちょうど飛んできたミツバチを見て、純がそう言うと、慎吾さんもうなずいた。
「金みたいな黄色で、雄しべに黒いところがあって、そうだ。たしかに、ミツバチみたいな花だな」
それで、ふたりはこの草を「ミツバチソウ」と呼ぶことにしたのだ。
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