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慎吾さんは、アパートの三階にひとりで暮らしている。家族はいない。昔は、先生だったか、役所づとめだったか、とにかくカタい仕事をしていたらしい。
純(じゅん)は、慎吾さんのとなりの部屋に、お母さんとふたりで引っ越してきたばかりだった。
引っ越しのあいさつに行ったときだ。
「おじいさん、こんにちは」
純が言うと、慎吾さんは胸をそらした。
「わしの名前は『おじいさん』じゃない」
いっしょにいたお母さんは、あわてて頭を下げた。
「すみません。ええと…」
外に出ていた表札を思い出そうとしたらしいけど、お母さんはそこでつまってしまった。
「それなら、なんて名前なの?」
そう聞いたのは純だ。ちょっと腹がたっていた。本当いうと、そのころは腹のたつことばかりだったのだ。お父さんとお母さんが、もう夫婦でいるのをやめてしまったことだとか、小さいアパートに引っ越して、学校もかわらなければならないことだとか。そうしていなければ泣きだしそうだったから、純は腹をたてていた。
「こら、純」
お母さんが、小さい声でたしなめた。でも、純は、きゅっと唇をとがらして立っていた。
「わしは、野原慎吾という」
「おじいさん」は、重々しく言った。
「『慎吾さん』と呼んでいいぞ」
「慎吾さん…」
お母さんが、ちょっと驚いたように言った。
「で、あんたはなんていうんだ」
慎吾さんは純に言った。
「川原純。純って呼んでもいいよ」
純は、自分の名前をきっちり発音した。
ついこの前までは、「島田純」だった。
慎吾さんは、明るい声で笑った。笑うとちっとも恐そうじゃなかった。
「純ってのもいい名前だ。慎吾の次くらいだがな。よし、お隣同士だ。よろしくな、純」
純は、なんだか腹立ちのもっていきどころがなくなって、困ってしまったのだ。それでも礼儀知らずではなかったから、ちゃんと答えた。
「よろしく。慎吾さん」
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