ミツバチの童話と絵本のコンクール

リュウの海

受賞さき あきら 様(京都府)

「リュウ!」
 洋介は小さな手をのばして呼んだ。
 海はきらめいていた。
 風はゆっくり流れ、水平線の向こうの大きな雲は去っていく夏の後ろ姿のように見えた。
「海に帰したら、きっとリュウは死んじゃうよ」
 父は洋介の声が聞こえないかのように、背中を向けたままで、それを海に放つように言った。
 浅瀬にいる何人かが水槽から一匹の小さなイルカを海に放った。
 そのイルカの右側の腹びれには大きく裂けた傷口があった。
 傷口は完全にふさがってはいたが、それは見るからに痛々しい。
 イルカはゆっくりと泳ぎだし、しばらく浅瀬をぐるぐると回り続けた。
 父は洋介に近づいて、頭に手をのばした。けれど、洋介はその手を強く払いのけて言った。
「嫌いだ」
 父はその手をさすりながら、海の方を見た。
 しばらく旋回していた背びれは、ゆっくりと沖に向かって進み出した。

 六月の初め。四年生のある組の教室は突然の転校生にわいていた。
「それじゃあ、みんなの新しい友達を紹介します」
 担任の田川先生が太った体を揺らしながら黒板に「香川洋介」と書き、その横に「かがわようすけ」とふりがなをつけた。
 洋介はみんなにぺこりと頭を下げると、先生が指さす席に座った。
 ホームルームの時間が終わると、教室のみんながどっと、洋介のところにつめかけた。
「どっから来たん?」
「なあ、なんで転校してきたん?」
 やつぎ早にされる大阪弁の質問に洋介はとまどい、黙ったまま座っていた。
「お父さん、どんな仕事してんの?」
 その質問に洋介はぴくりと反応した。
「父さんは・・・」
 洋介は初めて口を開いた。
「獣医」
「じゅうい、っていうたら動物のお医者さん?」
「うん、でも、海の動物、えっと、イルカとか・・・」
 洋介を取りかこむ子供たちの目が好奇心に輝いた。
 洋介は父の仕事を言うときいつも誇らしさを感じた。
 洋介は遠く離れた父のことを考えた。

 三日前?
「ほな、洋介は連れて行きますえ」
 海の近くの水族館。昌江はイルカの診察をしている父の背中に言った。
 父は振り向きもせずにイルカの治療をしている。
「ほんまにもう」
 昌江はあきれたように肩をすくめ、屈んで洋介に顔を近づけて言った。
「さ、洋ちゃん、昌江おばあちゃんとこ行こな」
 昌江は洋介の手を引いて、駐車場へ向かった。
 洋介は手を引かれて歩きながらふり返った。けれど見えるのは父の背中だった。
「さみしかったやろ?」
 昌江は洋介を助手席に乗せて、シートベルトを締めながら言った。
「ちゃんとお話したかったんやけど、お父ちゃんのお仕事ぜんぜん終わらへんしなぁ。毎日あんなんやったら、洋介ちゃんどないなってしまうか」 確かに、一週間のうちほとんど、父は家にはおらず、一年前に母が死んでからは、夕飯も一人で食べることの方が多かった。
 そんな洋介の生活を見かねて、大阪に住む母方の祖母である昌江が洋介を引き取ると言い出したのだった。
「おまえの好きなようにすればいい」
 久しぶりに一緒に食べる夕飯のとき、父が言ったのはそれだけだった。
 洋介は黙っていた。洋介はずっと父と口をきいていなかった。
 あのリュウを海に返した日から・・・ それは父に初めて「嫌いだ」と言った日でもあった。

 リュウは漁船のスクリューに巻き込まれた子供のイルカだった。
 洋介の父の応急処置のおかげで無事だったが、右の胸びれが大きく切り裂かれて、思うように泳げない状態だった。
 その小さなイルカは水族館の水槽に移され、洋介が世話をすることになった。
 洋介はイルカにリュウと名前をつけた。
 傷ついた片腕のイルカにはその名前がぴったりだと思ったからだ。
 洋介が世話を始めてしばらくたった頃、突然、父がリュウを海に帰すと言い出した。
「リュウはちゃんと泳げないんだ、すぐに死んじゃうよ」
「それはわからないだろ?それにリュウが帰りたいとしたら?」
「そんなことわからないだろ?ここにいればエサだってもらえるし」
 洋介は反対したが、父はリュウを海に帰した。
 うまく泳げない子供のイルカが自然の海の中で生きていけるとは思えない。なのに、父がなぜ突然リュウを海に帰したのか、洋介にはわからない。
 洋介はいろんなことを父に訊きたかった。いろんなことを言いたかった。
 けれど、ただ「嫌いだ」としか言えなかった。

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